Friedrich Nietzsche |
85節から89節までをどうぞ。。。
原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。
)))085節(((
Die gleichen Affekte sind bei Mann und Weib doch im Tempo verschieden: deshalb hören Mann und Weib nicht auf, sich misszuverstehn.
同じ情念でも、男と女とではやはりテンポに相違がある。それ故に、男と女とは互いは誤解することを熄めない。++++++++++
「互いは」は、「互いに(を)」の誤植かもしれません。原文は<sich ズィヒ>で、2・3人称の再帰代名詞3・4格ですから。
「情念」と翻訳されています<der Affekt アフェクト>という語を、ニーチェは多用しています。
本来的には「激情、興奮」など、一過的で強い感情を指すもので、病理学的には「情動」や「欲動」などとも親密な語です。
他節でも折々触れていますように、この「情念」にはニーチェ特有の解釈が施されていますため、むしろニーチェ哲学固有の術語と見立てておいた方がよいかな、とも思われます。
敷衍(ふえん)しますと、「主観的な感情に身体的生理的随伴現象を常にともなう複合感情」(『精神医学事典』弘文堂 1981年版参照)であるだけでなく、そこに「思惟」が蔓(つる)のように絡まったもので、さらに命令者であり服従者でもあるアンビバレント(両面価値的)な「意志」が関与したもの、と言えるでしょうか。。。
いささか大仰ですが、そのようにでも構えておきませんと、読むこちら側の精神が弾き返されてしまう場合があります。それを人は、「ニーチェは難しい」、と表現しておられるだけなのだろうと感じます。
それ自体無世界的とも言える「主観」という概念への過度の信憑(しんぴょう)、あるいは不相応な高待遇、といった状況までをも射程に収めた攻撃的な術語と考えられます。形而上学の急所をほぼ射止めたあのハイデガーの表現の「生硬さ」が(『存在と時間』第七節後半部を見られたし)、獣をおびき寄せる「罠・仕掛け」であったとすれば、ニーチェのそれは、まさに獣を追いかけ仕留めるハンターの「散弾」にも匹敵します。
たかが「男と女」の話じゃ。。。と思われる方々も多いと思います。
もちろんそれはそれでよいわけですが、『善悪の彼岸』序言冒頭第一文を次のように書き下ろしたニーチェの思いの嵩(かさ)というものを顧慮しますと、どうもそれだけではないような気もします。
真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。したがいまして上掲箴言の「同じ情念」と訳されております箇所も、「(たとえ)同じ情念(であることをわたしニーチェが百歩譲り認めたとしても)」、という程度には読んでおきたいところです。
「テンポ」という用語も気になりますが。。。また後節で詳説することにしましょう。
♪う~さ~ぎ~追~~いし~か~の~や~ま~~~~~♪
涙と郷愁を誘う要因のひとつは、このけだるい速度(テンポ)ですが、これが3倍速にでもなったらどうでしょう?
涙どころか鼻水も出ませんよね(笑)。
それがお分かりになれば、今回は合格です。次節の「女」はどうでしょうか?
(2008年07月08日 記)
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)))086節(((
Die Weiber selber haben im Hintergrunde aller persönlichen Eitelkeit immer noch ihre unpersönliche Verachtung - für 》das Weib《.
女たち自身がすべての個人的な虚栄の背後に常になお――「女」というものに対して――非個人的な軽蔑を抱いている。++++++++++
「女性」の「自然性」に関するニーチェのじつに多彩な表現・語句一覧(リスト)を作成しました。この箴言散策集102節で試みています。参考になさってみてください。50個近く!もありますよ。
一言で申し上げますと、「(個人的な)虚栄」、というものを主題にした箴言です。
常識的に考えますと、「虚栄」は「見栄」ですので、他者よりも一歩でも半歩でも、中味が伴うよりも先に、しゃしゃりでる、または、じゃじゃばる、といった感じでしょうか。何よりも強烈な「他者」意識、というものが前提となっています。
ところがニーチェは、そのような常識とはまったく異なる視点・視座から、その発生や生成というものを眺めています。
「虚栄を示しながら軽蔑を抱く」と読み込みますより、その「虚栄が軽蔑から生まれる」と読み込んだほうが、箴言の意図に近づきやすいかもしれません。
ニーチェは、前節でも触れましたが、命令者でもあり服従者でもあるアンビバレント(両面価値的)な「(力への)意志」の「成素」に、「感情」や「思惟」などをあげています。ニーチェの言う「意志」自体が、アンビバレントなものですので、おのずと「感情」や「思惟」も、善悪尊卑・強弱大小等、あらゆる価値を包摂したものになります。
「個人的な虚栄」は前景です。その後景に「非個人的な軽蔑」が控えています。個人的な他者意識ではなく、『「女」というものに』対する「非個人的な軽蔑」がじつは元凶となって、「個人的な虚栄」をプッシュした、ということになります。
ニーチェのこの立体的な奥行きある視座の特性がクリアできますと、したがって線状的な「認識者」であることを一旦中止(エポケー)しますと、上掲の箴言は、グググっと皆さんのほうに近づいてくるはずです。
とは言え。。。
エポケーするのには、いささか難儀されるかもしれません。今回は簡単なエポケーのコツを、伝授しましょう。
何でもいいですから(鉛筆でも、活字でも、窓外の風景でも、夕飯の米粒? Whatever!!)、一点をジーっと見つめ続けます。一点から絶対に目を逸らしてはいけません。瞬きも辛抱。
しばらくしますと、焦点以外の景色が白み始めます。そして焦点を合わせていた対象への既知が揺らぎだします。自分がいったい何を見ているのか、または何を見ようとしていたのか、が分からなくなってきます。しかし意識は清澄(せいちょう)。その時、「入水」と「排水」とが同時に進行し保たれる水面の流れのように静寂な意識の還流、というものにきっと気づかれるはずです。
この意識のアクチュアルな状態が、エポケーに近い状態です。ボーっとした状態ではありません。透明な意識だけがスッポリと体全体から抜け出たような不思議な感じが伴います。
ニーチェの箴言を、何度も何度も、眺めては読み、読んでは眺めていますと、次第にこのような状態になってきます。そのあたりで、「なんだろう?これかな?あれかな?ウン?」、という問いかけや発見のようなものが、自分のなかから逆に湧き上がってきます。
そこが箴言解釈の開始地点、ということにもなります。そのあとは、お一人おひとりの「問いかけ」と同時に姿を現す世界の不思議に導かれてみてください(笑)。文献的な検証は、その後の追認・補充作業にすぎません。
「女」シリーズが途切れます。。。が、また後節で登場します。
(2008年07月08日 記)
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)))087節(((
G e b u n d e n H e r z, f r e i e r G e i s t. - Wenn man sein Herz hart bindet und gefangen legt, kann man seinem Geist viele Freiheiten geben: ich sagte das schon Ein Mal. Aber man glaubt mir's nicht , gesetzt, dass man's nicht schon weiss.....
縛られた心胸、自由な精神。――心胸を堅く縛って囚えておけば、その精神に多くの自由を与えることができる。私はこのことをすでにかつて言った。しかし、人々はこれを信じないが、それはきっと知らないでいるからであろう。――(一部傍点あり)++++++++++
新田義弘著『現象学と解釈学』(ちくま学芸文庫 初版2006年)の巻末で「解説」を付されておられる谷徹氏は、そのなかにおいて、次のような指摘と問いかけをされています。
知を希求する哲学という観点で現代という時代を振り返ってみると、現代は、知(学知、知識、知恵・・・・・・)の軽くなった時代だと言えそうである。科学の知のパラダイム依存性、知(savoir)と権力(pouvoir)の結託などが明らかにされて以来、この傾向は続いている。・・・中略・・・。私たちが何かを知る(あるいは仮象に欺かれる)ということは、どのようにして可能になるのか。産業革命を基準にしましても、この約250年間に繰り広げられてきた科学「技術」と、特に人間存在をめぐる「哲学」とのレースには、まさにウサギと亀ほどの差ができてしまっているようでもあります。谷徹氏の指摘と問いかけは、そのような極端な差への焦燥から、おそらくは出で立ったものでしょう。
さて、箴言冒頭の「縛られた心胸、自由な精神」とは、ちょうど現象学で言うところの「隠れ」と「現われ」に相当するもの、と見立てることができます。
ニーチェの使用する「自由な精神」は、「力への意志」自体を指す場合もあれば、いわゆる「民主主義(的自由)」や「水平化」、さらには「認識(論全般)」に対する揶揄(やゆ)であったりする場合もあります。
当該箇所が、そのうちのいずれの意味で使用されているかは、むしろ、そのまわりを取り巻く価値的で多彩な語句・表現のほうに決定権が託されています。特に後期の著作を読まれる場合には、若干の注意と集中が求められます。
上掲箴言のハイフンの内部を見ますと、「心胸を堅く縛って囚えておけば、その精神に多くの自由を与えることができる」、とあります。
この「心胸」自体を、真理をも非真理をも生成する全方位的で傍若無人な「力」の在処(ありか)のメタファーである、と解しますと、畢竟(ひっきょう)、「自由な精神」は「認識(論全般)」の迷妄性や虚構性や仮象性などを想定して、ニーチェが使用した可能性が浮上してきます。
従来の認識論の真偽判定の限界からすれば、「人々はこれ(力の意志)を信じない」のは当然ですし、したがって「認識(論全般)」自体が、じつは同じ「力の意志」のまた別の発露であったことを「知らない」としても、それは愚かなことだが仕方もなかろう、というニーチェの吐息が思わず漏れ出た、そのような箴言なのではないでしょうか。
「縛られた心胸」と「自由な精神」とが「隠れ」と「現われ」に相当する、とわたしが冒頭で述べましたのは、それらの紐帯(ちゅうたい、じゅうたい)が緊密であることを示そうと思ったからではなく、時には気まぐれにも両者の疎遠を画策したり、あるいは切断を決断したりもする「力の意志」の全方位性の特性のひとつとして、わたしがニーチェから感じ取っていたからです。
そのように考えてみますと、同じく冒頭で紹介させて頂きました谷徹氏の、「私たちが何かを知る(あるいは仮象に欺かれる)ということは、どのようにして可能になるのか」、という「問いかけ」に対する解答の一部を、ニーチェはすでに100年以上も前、懐に隠し持っていたということにもなります。
この箴言をさらに深く紐解くヒントは、『存在と時間』第三十二節・三十三節・三十四節にあります。上級編を目指される方はぜひご一読を。
(2008年07月08日 記)
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)))088節(((
Sehr klugen personen fängt man an zu misstrauen, wenn sie verlegen werden.
極めて怜悧な人々は、当惑するようになれば、不信を置かれ始める。++++++++++
「怜悧(れいり)」とは、頭脳明晰、ということです。「認識」のメタファーとして、あるいは、「形而上学」全般に対する揶揄として、ニーチェは用いたのでしょう。最たるものは、ヘーゲルでしょうか。フォイエルバッハに、土俵際で「うっちゃり」を食らったのですから。
「不信」を抱いた人たちにしてみれば、「理屈」で割り切れるものであろうが、なかろうが、「極めて怜悧な人」たちなら、何だって必ずや解答してくれる。そう信じていたのでしょう。
ところが事はそう簡単には運ばない。ウン。。。?となるのは当然でしょう。
「怜悧」であればあるほど、「当惑」が許されない。「当惑」が度重なれば、当然、「不信」はさらに募る。。。となれば、知的労働者であられる方々には、とても辛いことですよネ。
エっ?「当惑スルトキャア、ソントキデェイ!」ってですって?
それはアナタ、肉体労働者様のお言葉に近いのでは?
インテリの性(さが)とは、1978年、「人格障害による栄養失調および飢餓衰弱」により、七十一歳で他界した、数学者でもあり、論理学者でもあり、哲学者でもあったクルト・ゲーデルが示したものなどを言うのでしょう。死亡時身長約170センチ、体重約30キログラム。1970年には、「(神の)存在証明」の推理まで完成させているのですから。(この段、高橋昌一郎『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』参照)
人間の「認識」は、「表象」と親密な関係を結んでいます。「認識」の対象になるものであれば、それ自体、あるいはそれらの間に成立している「関係」などを、幾何的にメモすることは比較的簡単です。
しかしながら、人間存在の「存在」を描け、と命じられてすぐさま「表象」し幾何的に表示することのできるひとは、さて、教授系の職業に携わっている方々の中にどれほどいるでしょうか。
誤りは、誰にだってあります。
しかし誤りかも。。。と思いつつ、それでも果敢にチャレンジする人、その人こそ、教授系の職業を天職としている人に違いありません。
ハイデガーモデル |
どうぞどうぞ、ご自由に使ってください。
しかしこれだけでも、「認識(概念・陳述・命題・・・)」が、わたしたちの「心」から極めて遊離しやすい位置(時間相)にあることが分かりますし、ニーチェが残忍な刑罰に執着した気持ちにも、一定の理解を示すことができます。エイズで死去したフーコ(Michel Foucault 1926-1984)などにも言えることです。
ところで、今をときめく竹田青嗣氏でさえ?、初期のご著書『現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫 初出1987年毎日新聞社)などを立ち読みしますと、デカルト・カント・ヘーゲル・ニーチェ・現象学などの描画(スケッチ)に苦心されていたのがよく分かります。特にニーチェの「ルサンチマン」の描画は不正確で、現象学についても「信憑」だけに限定されていたりして、初心者には不親切です。もちろん、今は違うとは思いますが(笑)。
凡そ日本の哲学者は、描画が不得手なようです。
わたし?わたしは学者ではありませんので、どうか免罪符を。
(2008年07月07日 記)
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)))089節(((
Fürchterliche Erlebnisse geben zu rathen, ob Der, welcher sie erlebt, nicht etwas Fürchterliches ist.
恐るべき体験は、それを体験する者が何か恐るべきものでないかどうか、という憶測をさせる。++++++++++
「憶測をさせる」の原文は、ご覧のように<geben zu rathen ゲーベン ツー ラーテン>です。<rathen(現代語ではraten)>は、「当てる」が主な意味で、あてずっぽ、というニュアンスがまだ残っています「憶測」という日本語訳は、箴言の主題からしてどうでしょうか。。。
ここは「推測する」、または主題の解釈如何によっては、「射当てる、射止める」、あるいは「仄(ほの)めかす」、などでもいいのではないかと思われます。
難解な部類に入る箴言のひとつにはなるでしょう。主題はまったく異なりますが、視座の共有性、という一点から見れば、108節などに近いものがあるようにも感じます。
いずれにしましても、人間存在の「体制・機構・機序」のようなものに深く関与した箴言だと思われます。
箴言冒頭に、「恐るべき体験」とあるかぎりは、わたしたちの五感で捉えられる範囲内での実際的な「体験」を想定したもの、と考えられます。
しかし、箴言中盤に差しかかりますと、事情は一変します。
想定していたはずの「恐るべき体験」が突如消失し、恐るべきものを「体験」した者が、「恐るべきもの」ではないか、と問い返されています。
一体これは、どうしたことでしょうか?ニーチェに、何が起きたというのでしょうか?
自分の「影」に恐れた。。。というのも、どこか違うような気がします。これはただ「影」から、一瞬間、気散じていたことから生じたものにすぎません。
そこで。。。
「存在」(論的な)問題に躓きそうになったときは、やはりハイデガー様にお伺いをたててみるのが定石でしょうか。
未完の大著『存在と時間』第一部第一篇第十三節に、次のようなくだりがあります。
或るものを忘却したときには、以前認識されたものとのあらゆる存在関係が一見消え去ってしまうように思われるが、そうした忘却さえ、根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならないのであって、すべての錯覚やあらゆる誤謬も同様なのである。(原佑訳)とても難解な叙述ですねぇ。。。
一度読んでも二度よんでも、理解がいっこうに起動しない。しかしそれで普通です。ご安心ください。
とりあえずは、「忘却」や「錯覚」や「誤謬」といった出来事を、突発的な認識上のトラブルとでも捉えておきましょう。「デジャブ(既視体験」のある方は、その体験を箴言解釈の起点にされるのもよいでしょう。
二点目は、それらが「根源的な内存在(現存在)」の存在論的な機構に基づいた「変様(態)」にすぎない、と叙述したハイデガーの思索の真意に辿り着くためには、「存在(SEIN)」と「存在者(SEIEND)」を包括的に表現した「(世界内存在する)現存在(Dasein)」という術語への知的理解だけでは不十分である、ということです。つまり引用しましたような出来事は、「論証」として叙述されているのではなく、言葉一切にさきだつ時間領域で実際に体感したことを証しする「語り」としてハイデガーにより叙述されている、ということです。この点への気づきがなければ、ハイデガーのどの著作を読んでも得るものはありません。
「体験」は、学者方は軽視されますが、ハイデガーの著作を了解するための大きな前提となります。けっして、教養的な高さが求められているのではありません。むしろハイデガー理解のためには邪魔です。あまたある解説書も同様です。解説書を読んで「分かった!」と感動する人もいるようですが、わたしからはとても幸せな人に見えます。わたし自身この十年(2008年現在)、解説書などほとんど読みませんでしたし、人に薦めたこともありません。
さて、この一節を通じハイデガーは、陳述や命題を目指す従来の「認識作用」が、いわゆる無世界的な主観と客観との関係枠(存在関係)にその始原的な足場を構えてきたことを、あからさまに標的にしています。しかし「認識作用(主観)」のこの始原性を、「(世界内存在する)現存在」の先行性によって無化しようとしているのではなく、むしろ一つの存在様態(現存在の変様態)にまで格下げすることに力点を置こうと意図しています。ニーチェはその先駆者です。
「忘却」や「錯覚」や「誤謬」などを、従来の認識作用の種別として見立てますと、いずれも認識作用の始動因となる「主観」とその「客観(対象)」を存在関係にしながら生起することになります。したがって、たとえば「忘却」などは、記憶した「主観」と記憶された「客観」という存在関係それ自体の瓦解(がかい)や崩壊、あるいは消滅などを与件としたものである、と言うふうにしか説明ができなくなってしまいます。
しかしハイデガーは、そのような従来の思惟いっさいを放棄します。
ハイデガーは、それが「忘却」であれ、「錯覚」であれ、「誤謬」であれ、それらは「(世界内存在する)現存在」のあくまでも「変様」態である、という思索を頑として維持します。
この立場に立ちますと、たとえば「忘却」は、「現存在」の重要な存在機構である「気遣い(配慮)」それ自体が消失したことを意味する表現ではなくなり、「現存在」が世界のもとで同期的に出会う(気遣う/気遣われる)はずの存在者(他者)をただ逸したまま、右往左往している「存在」の戸惑いを指示する生動的な表現に変わります。つまりハイデガーは、「忘却」という言葉を、見えず聞こえない「存在」が「ある」ことを体感させるための「仕掛け」として、卑近な例を用いていたわけです。そのことが分かれば、とりあえずはOK、です。
一昔前になりますが、わたしは重度アルコール性幻覚症状の一種である「包囲攻撃状況(Belegerungssituation)」(注)という恐怖を体験したことがあります。
その後、その体験の記憶に相当年数苦しめられることになりましたのは、その世界の構成に関与したすべての事象の個々の事実性を、精神科医たちが言うように「まったくなかったもの」として疑い抜くことが、どうしてもわたしにはできなかったからです。しかしその点でわたしは、正しかったと思っています。(注)詳細は、福島章『現代人の攻撃性』(太陽出版)第六章を参照されたし。
今でも、当時の「包囲攻撃状況」を構成していた個々の事象を個々の表象として、それぞれに想起することができますし、纏(まと)いつく信憑も同時に再自覚することができます。
人(わたし)を探しだそうとしている変にざわついた複数人の声、空室であったはずの隣室から聞こえてくる男女の不穏な囁き、反対の部屋からはノコギリや氷を裂くような威嚇音、玄関ののぞき穴から見えた戦闘服姿の男、ベランダの人影と突入の気配、ヘリコプターの音、携帯による通報や密告の場面、通り過ぎた組員風の男たち、追いかけてきたヤクザ、屋根上から見えたベランダの女、地上から浮遊する声々・・・。
「包囲攻撃状況」の体験から十年が過ぎました(2008年現在)。
消えることはないものの、わたしの怯えや恐怖が、それでも幾分か和(やわ)らいできていますのは、年月の経過による記憶の沈潜や感情の風化などによるものではありません。
そうではなく、その時の狂気に及んでもなお、「世界内存在」していたわたしの放射状の気遣いが構成した世界、そしてその解釈の全時間に、おそらくは薬物やアルコールによるのであろう過去想起の参照のトラブル(異常)が強く関与し、その結果引き起こされた心神耗弱への傾斜が、さらなる参照の異常を連続的に誘発し止まらなくなった、というふうにフッサールやハイデガーを通じ理解することができるようになってきたからです。
間違いなくわたしは、傍目には明らかな「異常」や「狂気」として、映ったことでしょう。まさに狂気錯乱。街中を裸足で逃げ回っていたのですから。。。
しかしそれは、わたしの存在の存在機構や機序そのものが破綻・崩壊して起きたものではありません。否それどころか、じゅうぶん正常に作動していたにもかかわらず、その作動様態の表層において、なにがしかの大きな障害が一過的に生じていたのであろう、と思っています。その引き金が、たまたまアルコールであり、薬物であったのであろう、と解釈することができるようになっています。
問題は、ハードディスク自体の壊滅ではなく、その前景を占めるソフトやプログラムの深刻な障害であった、と喩えることもできます。
だからこそ、その後わたしに対しあらゆる処置が施されたのでしょう。精神病棟への隔離、その後重度依存症者の更生施設へ(現在は存在しない)。刑務所のような組織生活を経て、結果一年と六か月を忍びに忍び、わたしは社会に復帰しました。そんなわたしを迎える者が誰一人もいなかったのは、当然です。
想定していたはずの「恐るべき体験」が、突如消失し、恐るべきものを「体験」した者が、じつは「恐るべきもの」ではないのか、と問い返したニーチェの直覚は、尋常なものではないどころか、まったくもって正確です。
木場先生には失礼ながら、ニーチェの感じたであろう「不気味さ」を思うと、冒頭述べました「ということを仄めかす」のほうがよかったかも。。。というわたしの気持ちに変わりはありません。
(2008年07月07日 記)
2 件のコメント:
大変勉強になり、非常に興味深い内容でした。
まず女の虚栄ですが、他者への批判的思考が根源にあるから見栄を張るエネルギー(対抗心)へと変わる。この解釈は心理学でも確かにあります。
記事中では4点程の観点解説がなされており、1点ずつに答えたくなる衝動はありますが、コメントとしては膨大な文字数になってしまいますので、それは自身のブログにて解説したいと思いました。
気になった2点だけに触れます。
『忘却』について、医学上ではある種の記憶喪失や失認を発症しても、やはり『自らが意識する意識』内では思い出せないだけであって、一度体験経験した事を完全に忘れる・消去する事はないと言います。
それは単に一時的な外的要因によって海馬や小脳変性体など記憶を司る電気信号の誤作動に過ぎないというものです。
ニーチェ、ハイデガーが言語化と表彰化を試みた結果は医学的(科学的)実証が困難であり、フロイトが提唱した『意識と無意識』『無意識の中の意識』に由来出来得る同意だと思います。
同じように、自我・エス・超自我と「現実的外界」を加えた四要素の相互関係から人格形成論が展開されました。
それらは、主観的(感情)に感じて(意識)している自分、客観的(内向的)に感じる(無意識)もう一人の自分、そして他者から見られている(想像or憶測)自分であり、意図的で容易に自らを操ることを人は瞬間的にやってのけているものであり、そのことにまた気付いてもいないと解説されます。
よって脳刺激性物質依存者が見る、幻覚や幻聴、幻視などは『状況』としては在り得なくても、その人の中の潜在意識(深層心理)に確かに存在し、また覚醒(非依存)した後もその記憶は忘却し得ないものです。
リビドー(心的エネルギー)に刻まれ、それは逆行的回想内(エディプス・コンプレックス)に起因しているからです。
それが『恐るべき体験』を意味しているのではないでしょうか。
私はデジャヴをよく体験します。
怪奇現象、ラップ音や衝撃波、真実か否かは自分で理解出来ませんが俗に言うドッペルゲンガー体験などあります。
よく五感しか存在しないと科学者らは言いますが、第六感や予知は確かに存在します。
そう云った「いま」に遭遇している時、意識はまさに「エポケー」というのですか?その様なある種の瞑想状態にも似た空白の世界に自分が居ます。
本人は自覚がなく、また何故か記憶も現当時にはなく後から思い出します。
興味深き記事を拝見させて頂き、有難う御座います。
何よりも拝読頂きましたこと、感謝いたします。
よく勉強されているなぁ、と感じました。
ご指摘のとおり医学・心理学からの接近もじゅうぶん可能です。ニーチェに対するものというより、ハイデガーの語る「存在」とフロイト『快感原則の彼岸』で扱われました「死の欲動」との異同を巡る議論は、古くて新しいものでもあります。
ご承知だとは思いますが、その議論の最も簡潔な沿革としては、木村敏『心の病理を考える』第二章「精神病理学の歩み」を挙げることができます。
「デジャヴ」に関しましても、木村敏『偶然性の精神病理』第二章四節五節六節などに、ひとつの考え方が示されています。
「デジャブ」に関しましてわたし自身は、フッサールの「ノエマーノエシス」構造が還流する際の一過的な「しゃっくり」のようなもの、と感じていますが、きっとこの散策集連載のどこかで触れているはずだと思いますので、気長にお待ちください(冷汗)。
最後にご指摘になられた「第六感」は、Ryohcoさんの仰るとおりです。一歩踏み込みますと、「第六感」と言いますより「第一感」に位置する。。。と捉え返したのが(少々強引な書き方ですが)ハイデガーであった、とわたしは感じています。
これからも気長に気楽にお読みください。
ありがとう
アノニマス
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