2014/03/13

先生、なぜそんなに絶叫するのですか?

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自分の写真::昨夜はちょっと無理をして牧師説教動画を一本、最後まで聴いてみた。直近九日の礼拝であった。リバイバル派っぽい。一時間弱。。。

視聴してから三十分ほど経過したあたりから、「正」の字で「教会」という単語をカウントし始めた。

しかしながら説教者が次第に興奮しだし、「教会を渡り歩きながら品定めする者」や「すでに離れてしまった者」などが、いくら信仰を捨ててはいないと言っても天の国に入ることはなく、永遠に燃えさかる地獄におちるのは間違いない、と激しく攻撃しはじめた。

カウントどころではなくなってしまった。

わたし個人はキリスト者の自覚をもちながらも、徹底したACAC(anti-credo anti-church)主義者である。何か尋ねられれば可能な限り無礼なき様応じるが、ブログ以外の場で自分から私見を申し上げる、なんてことはまずない。

したがって礼拝に参加しないのはもちろん、イエスを神の子となどと思ってもいないし、そもそも十字架が贖罪であったなどという「屁理屈」や「大きな物語」を理解する教養もなく、まして全うな人生を人並みに生きることさえ不器用にも出来なかった人間である。原罪、原罪と言うなら、人間を先に止めたらどうかね、とすら思う根っからのあまのじゃくであり、やんちゃ者でもあるのだ。

だから永遠の命が欲しいなどと思ったこともないし、地獄があるとも思ってはいない。わたしの死の瞬間にこの地球この宇宙が、もしや大爆発を起こしはしまいかということをむしろ強く憂い、そうはならないことを願う、そんなキリスト者である。

それでもわたしは聖書を読む。心身あるいは取り巻くそのつどの状況になにかしら危機を感じれば、どこででもぶつぶつぶつぶつと呟く。歩いていようが座っていようが、楽しかろうが苦しかろうが、アーメン!ハレルゥヤ!助けて下さい!感謝です!見捨てたもうな!と憚ることなく短く祈る。

わたしは自分の限界・弱点を嫌というほど知っている。万策尽き死のうとしたことも何度かあった。殺されかけたことも何度かある。それでもわたしは、生きてきた。なぜ?それは誰にもわからないのだ。わからないことを分かろうとすることほど、野暮なことはない。涙して感謝する以外ないではないか。どこに向かって?どこだって誰だっていいのだ。呼びたけりゃ、好きなように呼べばよいのだ。言葉なんて、どれもこれも一番遅れてやって来る不自由極まりない誤差だらけの壊れやすい端末なんだから。

「力」はそのずぅっと前にいつもつねに働いている。人間がそのことに気がつかなくなってしまったのだ。もうどれくらい経つのだろう。二十一世紀だが。

アブラハムのヘブライ的形象も、モーセやイザヤのような預言者たちも、もちろんイエスも、じゅうぶん感じていたのだ。それもみな、死ぬ思いをしてだ。一瞬にして世界の色が変わってしまう出来事。。。たしかにあるのだ。

近現代の医学は、それらほとんどをMental Disorderの下位に振り分けてしまった。大分類名は、「疾病(しっぺい)・病気」となる。やがて対症療法という哲学が登場し、企業家が加担して、国家の後ろ盾を頂戴することで「患者」という尊い神秘家を薬漬けにし廃人に至るまでそつなく誘導する。

手品から不思議がなくなれば、おもしろさがより増すとでも思っているのであろうか。

信仰の所有権は、信仰者の自由のただひとつの担保である。「教会」に譲渡する性質のものではない。

にもかかわらず「教会!教会!」と絶叫しなければならないところに、日本の教会のお家事情があるのだろう。

正直に、助けて下さい!と言えばよいものを。

もう遅いかもしれぬが。

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