2014/04/09

「ふつう」の人はふつうに福音書をこう読みます

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US Repository(上)
当該論文標題部分(下)
::教団・教派・諸施設の指導者や先導者たち、そしてその神学的・牧会的・宣教的・財政的ブレーンとなっている学者(聖書学者・神学者など)やスポンサー(個人・企業)といった生き物は、一般信徒の面前に再三再四登場するものではない。いつも啓蟄(けいちつ)のない薄暗い舞台裏で、なにやらごそごそと離合集散を画策するのが、彼らの仕草に見受けられる典型的な性癖である。

右派、左派、中道派とは名ばかり。危機的な状況に陥れば、どこもかしこも暗闇ではなりふり構わずだ。青学に逃げ込んだ助平(が悪いとは思わないが)親爺といい、新書印税ごときに学者の魂を奪われた姜尚中氏を隠れ蓑に暗躍する知られざる大資本の牙城聖学院の黒幕、謎の老神学者の野望といい、隣人愛もへったくれもなさそうである。

舞台に華々しく登場する宣教師や伝道師や牧師や関連施設教師などは、彼ら暗闇のドンたちそれぞれが抱くてんでまちまちな思惑を実現するための一兵卒にすぎない。そのことに気づいている者たちは、最前線で接する一般信徒をうまく誑かし、みずからを悪者に仕立てあげてでもその場をうまくやり過ごす巧みな処世術を身につけてはいるようである。それはそれでよかろう。

しかしその一方で、純粋培養された生真面目な者たちは、一般信徒との緊張関係に耐えきれずにバッタバッタと倒れてもいる。ほとんどは精神疾患である。と言うことはつまり、精神疾患を辛うじて免れた厚顔無恥な者が、いつ頃からか、教会で「福音」を説き明かす資格を独占してきた、ということにもなる。これが、二十一世紀に突入し150年を過ぎた日本プロテスタンティズム衰退の顛末である(ペトロ伝承に基づくカソリシズムを除く)。

アメリカ製のリバイバル派およびその無数の枝の狂喜乱舞は、その反面教師にすぎない。ただ劇場空間の設置と集客・集金には長けており、サタン!サタン!とかまびすしき特徴を有するところから、欲求不満型の人や祭り好きの若者には圧倒的な人気がある。

聖霊に「様」をつけるなら、サタンにも「様」をつけろ!と怒鳴りたくもなってくる。反対、対立、矛盾、対極の識別が、この人たちには出来ないのであろう。

。。。とここまでは、ただの発声練習。本気で聞いてもらっちゃあ困ります。

そこで今回は。。。

『静岡県立大学短期大学部・研究紀要』11-3号(1997年度)-2に掲載されていた全15ページにわたる「文章」を紹介したい。(冒頭のサムネイル画像は、同大学HPのUS Repositoryおよび当該論文標題部分)

タイトルと著者名は以下のとおりである。タイトルにPDFファイルへのリンクを施しておく。オープンソースである。大学当局と高橋氏に感謝申し上げたい。もちろん削除する権限は当人および大学側にある。
『マルコによる福音書』の中のイエス
高橋  宏
Jesus in the Gospel According to MARK
Hiroshi TAKAHASHI
ご承知のとおり『紀要』とは、主に大学や研究所などのそのつどの研究成果を収録した定期刊行物のことで、市販目的で刊行されるものではない。一般の方々がその内容に与ることができる機会は、余程のことがないかぎり、ほとんどないと言ってよい。

したがって本来は、論文あるいは論稿と呼称してしかるべきものの集積であるが、まことに無礼ながら今回はあえて「文章」と呼び紹介させて頂くことにした。

それは、『紀要』という場において15ページをも費やされながらひとつの「注記」も設置されず、数点の聖書を含む参考文献も極少貧弱で、しかも参照箇所すら明記されていない、という体裁上の「欠け」が露わであったから、というわけでは実はまったくないのだ。

お読みになると分かるように高橋氏は、「マルコによる福音書」全体に関わる「読み」を、誰にでもわかるようにほぼ丸腰で実行されている。それはまるで、小説家がとある一節を何も見ず一気に書き下ろしたかのような気配に満ちている。無駄なようで無駄でなく、乱暴なようでいて乱暴ではない筆致・文体は、おそらくその結果であろうと思われる。

このように、高度な論文を書ける人があえて駄文を装う場合、自殺者の発する微弱な発信音にも似た最後通告の不気味さがどこかしらに漂っているものである。それは、「マルコによる福音書」全体を、個としての信仰あるいは統治機構としての宗教(システム)に対する巨大な無言の「問い」にさりげなく全変換するため、非-キリスト者でありインテリゲンチャでもある高橋氏が選択した、最善で最高度な戦術、否、戦略でさえあったのではなかったか、という具合にわたしの関心を刺激するのである。

15ページをほぼ丸腰で書き通されたその「余裕」と「お洒落」と「粋さ」に、「ふつう」の非-信仰者からやや「ふつうでない」われわれ信仰者への、率直でありながらにして深くもあるメッセージというものを頂戴したような気がわたしはしたのだ。そのわたしが抱いた思いの一隅に感謝と親愛の情をもこめ、あえて「文章」と表記させて頂くことにした、ということなのである。。。ご容赦賜りたい。

氏は次のような一文で、ご自身の「文章」を閉じられている。
さて、イエスを一言で括るとすると、「ユダヤ教改革に失敗した男」ということになろうか。
固有名詞イエスを措定する陳述内容として必要にしてかつ十分な記述であるかどうかについては、若干の課題が残されるであろう。

しかし、当時の多重植民地下において高揚しながら激しさを増していたであろうあまたのユダヤ人愛国運動を考量すると(→イエス時代前後の宗派状況概観)、高橋氏精一杯の「総論」であったのであろう、とも思われてくる。

イエスを「逆説的反抗者の生と死」というスパンにおいて描いたあの懐かしき田川建三風、と言えないこともない(『イエスという男』第一版1980第二版2004)。ただ、「ふつう」の非-信仰者として「マルコによる福音書」を通読するだけでなく、各章各節を「各論」として、同語反復を少しも厭われず丁寧に手ぬかりなく処理されており、さらにそれらを五つのトピック(カテゴリー)に選り分け分類された結果、高橋氏としてはおそらくおのずからに辿りつかれた「総論」であったのだろう、とわたしは素直に拝読させてもらった。「ふつう」の読者として穏やかにマルコに応接した、ということではなかったろうか。

わたし自身は、
「総論」ほぼ賛成、「各論」ところどころ反対。
これが高橋氏の「文章」に対する信仰者(としての)わたしの応答である。

一言添えさせていただくとして高橋氏の「ユダヤ教改革に失敗した男(総論)」は、「人間」イエスを当然の前提としたものである。わたしもそう思ってきた。アナタハ矛盾シテイル、とお感じになる方々がおられることを承知で申し上げると、受洗前も受洗後も変わりなく、イエスは「人間である」とわたしは思い続けてきている。

その理由はただひとつ。

特に「マルコによる福音書」は、ハイデガリアン(heideggerian)であるわたしにとってまさに現象学の宝庫と言えるほど価値の高い信仰の書であり、したがって人間の存在体制・存在機序の真理探究の書でもあるからである。

もちろん最古(エルサレム神殿陥落前)の「マルコによる福音書」原本(オリジナル)が発掘される可能性などもはやなく、ほとんどの場合わたしたちは、夥しい数の後世の写本群の校閲作業から得られた校訂本のさらにその翻訳本で満足する以外ない。その翻訳本でさえ国によりさまざまであり、しかも一種類や二種類では到底おさまらないほどの改訳を経てきているのだ。まして原始教団の教書的性格で潤色されているとなると、わたしたちの「読み(解釈)」には、常に深い絶望が伴ってしかるべきなのである。それは、解釈の円環を閉じてはならない、という警告でもあるのだ。

イエスの生と同期していたはずの時空間の諸相がそれぞれに歪曲し、散逸し、奪われ、遺棄され、虚構添加されたこと等に目を完全に奪われてしまったからこそ、かつての聖書解釈は「玉ねぎの皮むき」で終わってしまったのである。その反省がキリスト教教界でじゅうぶんに活かされてきたとは、到底言えない。

イエスの「人間宣言」が出来ないことと、あの「使徒信条」との長きにわたるあまりにも深すぎる関係を断つことが出来ないこととは、コインの裏表なのである。天皇陛下でも「人間宣言」したのに、イエスの「人間宣言」が出来ない、その思想的意味をキリスト者ならば一度は考えてみられてはどうか、と思わざるをえない。一般の人々からは、わたしたちに起こっている「異変」がよく見えているのであろう。さてわたしたちキリスト者と自称する者に、はたしてみずからの裸が見えているのであろうか。。。

「贖罪論」とその屁理屈の根拠として仮構された、これまた屁理屈の「三位一体論」などは、世界状況の変容に応じていつでも殺人が合理化できるよう、ローマの御用学者たちが仕組んだギリシア由来の、厳密に申し上げればエジプトはアレクサンドリアで醸成され周到に準備された形而上学の危険極まりない産物であり、いわば洗脳装置なのである。

その空理空論の上に、思うがまま取捨選択し整序した『聖書』と教会を、国家統治あるいは世界統治の野望のもとに据え置いたのである。その後のヨーローッパの文明文化の在り方を決定したこのウアビルド(世界原像)のパラダイムから逸脱した者のことごとくを、暗殺・殺戮・虐殺してきた宗教、それがキリスト教である。今もそうである。その暗黒史に、特に日本のキリスト者は(わたしをも含め)あまりにも鈍感すぎる。

なぜか。

四方を海に守られてきたからである。それが、島国根性=突発的排他性に化粧された陰湿な村八分的定住型共同体精神を、この民族が獲得した主要因である。世界の諸国が恐れているのは、そのDNA(垂直遺伝子)ならびにRNA(ヴィルス拡散型遺伝子)なのである。その批判を受け入れる力がこの民族にはない。ヨーロッパはすでに全ヨーロッパ史の深刻な省察期に突入しているにもかかわらず、である。いつも日本は、Too late!!  なのだ。後世に出現するであろう巨大な負荷を無視して経済だけが、不気味に先行している。

高橋氏の「各論」については、「ところどころ反対」と上述したが、詳細についてはまたの機会に譲りたい。(→途切れた系譜(ハヤトロギア)イエスの「死生観」などを参照されたい。さらなる記事検索は右サイドバートップにある「一発検索」をご利用頂きたい。)

最後に。。。

疑うことなど微塵もなかった教会生活における数々の暗黙の了解や仕草や礼拝様式も、世代連鎖の途上で深刻な渋滞に遭遇しているらしく、泡沫の如き呆気なさでそれら聖なるはずの価値が下落する現実を、わたしたち信仰者は以前よりも多く見聞し、また体験するようにもなってきている。

なぜこうなるのだろう。。。と一度は問うが、如何(いかん)せん、二度目会った時はすっかり鸚鵡(おうむ)様。追跡すれば案の定、今日も会堂でこっくりさん。一方で宗教とは、ありとしあらゆる「問い」を個人から締め出してしまうことでもあるのかもしれない。「問い」を圧殺すれば、人間的時間は仮死状態になる。なんとも心地よい永遠の疑似体験である。それを世間では、思考停止、と呼ぶ。正確には、思考仮死、であろうが、そうは呼ばなかったところに意味がある。

招かれた教会の信仰規範になんとしてでも倣はむとする者たち。招かれざる客になることを承知で定住を拒み草地を遊牧しつづける者たち。いちはやく家庭や会議室に拠点を移すこころ疾(と)き紳士淑女たち。そして(わたしのように)誰もいない密林に一人こもり、相手陣地に届くとは到底思えない火縄銃を後生大事に抱きかかえては勝利の妄想に日めくりをさせる変わり者など。。。もちろん棄教しながらにして未練までは断ち切れず、時折目覚める理性と情動との齟齬に安らかな眠りを妨げられている真面目(しんめんもく)な方々も、なかにはおられよう。それら間合い間合いに目を凝らせば、いとど万華鏡の如くにもなりなむ、と思わざるをえない。

こうなってくると、一度ならずともみずからの信仰の定期検診を受けてみるのも必要なことかもしれない、と思われてもくるのだ。わたしは、棄教せよ、などと言っているのではない。たまには信仰者として来し方を振り返って見られてはどうですか、といった程度のたわいもない提案をしているだけなのだ。

血液検査の「検査報告書」を見るのと全く同じ。あれが低いの(↓)これが高いの(↑)とわいわいがやがや言い合っているうちに、自然と生きながらえる知恵をいただいたり与えたりするものだ。現代の日本プロテスタンティズムの制度内には、そのための機構・機序・デヴァイス(装置)というものがまったくない。もともとそういう比較的自由な思惟自体を制圧するわずか数個の命題によって「使徒信条」が完成したことに思いを馳せれば、当然ではある。キリスト教による世界制覇への野望と可能性を最終的に胚胎したのは、潔くこの「使徒信条」を反古にしてしまわなかったからである。

高橋氏の「文章」は、キリスト者への恰好のリトマス試験紙である。
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