2013/10/24

西欧人の斜陽


An onymousジェラール・グラネル最後の刊行テクスト「実体から遠く離れて、どこまで?」(カント以降の思考の存在論的ケノーシスについての試論)(1999年)に対する読解試論「全体の無なることの信」(2001年)の5においてジャン=リュック・ナンシーは、グラネルのテクストの最終部を引用している。
何ということだ!反対に、神的な創造という発明物が、<存在>そのものの純然たる有限性のなかにある恐るべきものを前にしての、われわれの側の逃避にすぎないのだとすれば?(本テクストは『脱閉域 キリスト教の脱構築1』に全文収録 大西雅一郎訳)
まさにグラネル渾身のエクリチュールであり、「語り(証し)」でもある。

それに比し、引用者ナンシーの筆はじつに重い。

わたしなりに約めると、「ある恐るべきもの(ヌミノーゼを喚起する対象や体験)」から「逃避」するため(フロイトの言う補償作用として)人間みずからが「神的な創造という発明物(神話であろう)」を作為した。。。ということになろうか。

あのウィリアム・ジェームズも、このあたりにためらい傷をいくつかもっていた。モーセの顔を覆った布との類似性を強くもちながら、あえてハイデガーが「無」と表現せざるをえなかったのにも、同じ拍動が感じられる。その他西欧の先達たちはとりどりの身振りを示してきたが、そのほとんどがケノーシス(神の自己放棄)の問題に逡巡している。

あぁ。。。キリスト教一切の歴史とともにその魂を彫琢(ちょうたく)する以外なかった、したがって絶えずヤヌスたる唯一絶対神の統合失調と暴走を警戒しなければならない慢性的緊張を強いられてきた西欧人のパラノイア的苦悩は、四方を海に固く守られてきた極東を生きるわれわれの予想などをはるかに超え出てしまっている宗教的閉所の恐怖から現象しているのである。

したがって日本のキリスト教指導者の教条主義と平和ボケと劣化は、キリスト教信仰などとは一切関係なく、ただ彼らの宗教音痴が垂れ流してきた非奇跡の不法投棄の累々たる堆積と一対のもの、とみなすべきである。こちらは、干からびてもう剥せないのだ。それでも黙過の特権を得ているのが、日本のキリスト教界である。