2014/01/21

加筆論を笑うエリフは良い子バラクエルの子!

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天使の梯子が雲間から
天使の梯子が雲間から
posted by (C)白石准
阪神・淡路大震災後ほどなく故吉本隆明(1924-2012)氏の口をも開かせた「ヨブ記」ではあるが、旧約聖書学者・研究者はもちろん在野の研究者まで含め、はたしてどれだけの数の解釈が披露されてきたのであろう。

「星の数ほどにも」などと言おうものなら、さすがに、「大仰(おおぎょう)なり!」、と一笑に付されてしまうであろうが、福音伝道(宣教)の側にたつ説教者の「教説」に、本来の信仰主体たる一般信徒方々の秘められた「思い」を加え、さらに「目に見える星の数ほどにも」と言い直せば、さもありなむと共感される方のお一人やお二人は出て来よう。

夥しい数の『旧約聖書』「ヨブ記」解釈のそのつどの上書き具合いに応じて、信徒一人ひとりの解釈の座標も、実は確実に微動してきているのだ。しかし実際において、この地球の自転を感じることができないのと同じように、その解釈の微妙な「変容」を自覚するのはたいへん難しい。むしろ、解釈の「深まり」、という風に勘違いしてしまうことのほうが多い。わたしをも含むキリスト者の陥穽(かんせい)のひとつが、そこに「も」ある。生け花がより美しい「造花」にすり替わっていても気づかずに愛(め)でる、そういったえもいわれぬ時空間が「教会」には間々あるのだ。

さて今回の「十字架の現象学」では、

編集・編纂史的に後世の「加筆あるいは挿入」とほぼ断言されてしまった感のある「ラム族バラクエルの子エリフ」(「ヨブ記」)弁証の位置と役割につき、「使徒信条」から解放されたキリスト者として感じるところを述べてみたい。
無垢で正しく、神を畏れ悪を避け生きていた東国一番の富豪ヨブに、神の許諾を受けたサタンの試みが二度にわたりくだる。結果、多くの財産のみならず、下僕や若者たちをもたちまちにして喪失し、ついにヨブの全身は、激しい苦痛を伴う皮膚病にまで犯されることになる(1章-2章)。 
この二度の試みに際してもヨブは、一切の不幸に神を讃え、一切の不幸を神からの賜物として受け入れることを宣言する。 
ところが、 
出来事の悲惨を聞きつけ他国からやってきた友人三人(テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファル)とともに、無言のまま七日七晩座を共にしたのち、苦痛に苛まれるヨブの口から、自虐的な呪詛と攻撃的な弁証、そして執拗な問いかけが炸裂する。 
以後3章から31章まで論点は遊動するものの、延々ヨブと三人との議論(論争)は交点を結ぶことなく続けられることになる。。。
日本を代表する旧約聖書学者のおひとり勝村弘也氏は、議論が交点を結ばないその要因を次のように考察しておられる。 
ヨブ記にはもともと「論理的な意味」での答えはないからである。あるのは、どこまでも続く「問い」の連続である。これは典型的なユダヤ精神の表現であるとも言えよう。・・・中略・・・もともとヨブの弁論の場合には、論争相手を論理的に説得するために構造化されてはいないからである。ヨブのことばは、抑圧され精神的に苦悩する人間のことばである。・・・中略・・・ヨブの弁論に特徴的なのは、論理的整合性などではなくて、鋭い現実感覚である。正義への渇望である。(「ヨブ詩人は階級のない社会を希求するか?――「奴隷」「僕」「自由」の用法を手がかりに考える」『キリスト教論藻』No.41所収巻頭論文) 
大筋においてわたしは同意している。

ただ、「ヨブ記」自体に『「論理的な意味」での答えはない』と明言できるかどうかについては、括弧つきの「論理」(おそらく形而上学的推理形式のことであろう)に限定された点も含めて、いささかの疑問をもつ。

それは3章から31章までの論争記事が、「ヨブ記」編纂当時あるいは以前のヘブライ民族(であったかどうかも疑わしいが)内外および境界域における信仰共同体の生々しきクリーゼ(危機)を書き留めた原-資料の存在を匂わせるにじゅうぶんな質・量であることに関係する。議論が噛み合わず平行線を描くばかりの断片で、しかもいつまでたってもランディングしない、そういったものを「物語」とは通常呼ばない。むしろ原-資料と呼ぶべきものである。それを原-「ヨブ記」とアプリオリに想定してしまうから、エリフ登場以降の展開のぎこちなさや不自然さ、あるいは物語としての過度な飛躍を主たる根拠にした加筆説から逃れられなくなるのではないか、とわたし個人は感じている。

「ヨブ記」はもともと原-「ヨブ記」として「あった」のではなく、当初から高度な意図性を持って編纂されたものであって、その経過において信仰共同体の危機を象徴する原-資料の集積の一部が物語のエレメントとして転用された、と推定するほうがまだしもであるしまた自然でもあると思われる。つまりわたしの場合、従来の考え方とは順序がまったく逆なのである。「使徒信条」から解放されてみるとこうも変わるのか、と自分でも驚く。

単刀直入に申し上げると、クリーゼに直面していた信仰共同体を再教化・再統合するための、つまり32章から37章までのエリフの前駆(せんぐ)に接続するための「捨て石」としての役割を担わされて当初から用いられていたのであろう、ということである。したがって3章から31章までの論争の冗長(じょうちょう)さがエリフの登場を不自然で唐突なものにしているのは、原-「ヨブ記」への後世の加筆がもたらした断裂ではなく、当時の信仰共同体が直面していた尋常ならざる危機的状況それ自体である、と読み返すことだってできるのだ。いわば不完全な事態の完全な鏡像、と解釈することも可能なのである。そこに「教書」としての片鱗を感じさせるものがある。

イタリアの哲学者アントニオ・ネグリ(1933-)なども、エリフを従来の加筆説から引き合上げ高く再評価している(『ヨブ――奴隷の力』参照 情況出版)。

少し迂回してみよう。

3章から31章において展開されている三人の友人の弁証に共通する特質は「帰無知法」にある。通常の教会説教で語られることはまずなかろう。

オランダのベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632-1677)は、次のように言及している。 
次から次へと原因の原因を尋ねて、相手がついに神の意志すなわち無知の避難所へ逃れるまではそれをやめない(畠中尚志訳『エチカ』第一部「神について 付録」) 
これが「帰無知法」である。「帰無知法」は、(糾弾的)暴力の一種である。

スピノザは、こうも語る。 
神は、何ら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、その活動もまた何の原理ないし目的も有しないのである。(同書第四部「人間の隷属あるいは感情の力について 序言」) 
この点にまったく気づかずにヨブと論争を展開したのが、エリファズ、ビルダド、ツォファルなのである。

過去からの責めを未完了のまま背負い、未来の到来の可能性からも疎外されて、まさに「今」に凝結したヨブによってこそ、三人の弁証の安定した時間性は破砕した、と読むこともできる。身を切らせて骨を切った、とでも言えようか。ただの平行線を描いていたのではなかったのである。

ヨブの内的時間構成における「今」の尖端を捉えているのは、「ヨブ記」21章である。数節だけを引用しておこう。ヘブライ語底本(マソラ本)の徹底した逐語訳(ロバート・ヤング)を介して、拙訳を施しておく。 
This [one] dieth in his perfect strength , Wholly at ease and quiet.His breasts have been full of milk , And marrow his bones doth moisten.And this [one] dieth with a bitter soul , And have not eaten with gladness.(Young's Literal Translation 21.23-25)
ある者は、非のうちどころなく壮健で、思い煩うこともまったくなく、そして平安のうちに死をむかえている。これまでに彼が飢え枯れたたことは一度もない。それどころか、死してなおその骨髄は潤っている。またある者は、ひしがれた魂に伴われたまま死に、喜びを抱き食に与ることもついにはなかった。 (An訳) 
微動だにしないヨブの現実観察ではある。

このような不条理に捕らえられヨブと、「帰無知法」による論争の果て沈黙せざるをえなくなった三人との状況のただ中に、エリフが登場するようプロットされている。エリフの弁証は、32章から37章まで一気に続く。詳細な検討は省略するが、その弁証の最後の2節(37章23節-24節)だけに言及しておきたい。 
The Mighty! we have not found Him out , High in power and judgment , He doth not answer! And abundant in righteousness ,Therefore do men fear Him , He seeth not any of the wise of heart.(ibid.)
力と裁きにおいて高きにいます全能者を!である。わたしたちはまだ見出していないのである。いま黙して答えずにおられる。しかも義にも充ちておられる。だからこそ人々は、全能者を畏れるのである。わたしたちの人知など、少しも斟酌されてはいないのである。 (An訳) 
いかがであろうか。

スピノザの『エチカ』第一部には、三十六の「定理」が収められている。その「定理十七」は言う。 
定理十七 神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。 
わたしは、スピノザを擁護しようとしているのではない。

そうではなく、およそ二十年の間、広く利用されてきた「新共同訳」の該当箇所の翻訳では、エリフの弁証がヨブと論争した三人の「帰無知法」に包摂されてしまうのではないか、という点を指摘しているだけである。

事実、エリフを三人と同列に扱っている説教がたいへん多い。もしくは、エリフを不問に付して語られる説教がある。その結果、説教者自身も「帰無知法」に陥っている始末だ。しかもその深刻な誤謬に気づいてさえおられない。その迷走する聖書解釈の信徒への影響を、わたしは憂うのである。信仰共同体が実際に及ぼす悲惨の体験者として、そのことの危険を深く察知し洞察したおそらく最初の人がスピノザなのである。

田島正樹氏は、次のように語られている。 
スピノザは、もっぱら聖書のみにもとづいて聖書を解釈することによって、聖書の片言隻語にしがみついて自己正当化をはかる、教会権威のファンダメンタリズム(原理主義)を、内部から解体しようとするのである。(『哲学史のよみ方』第2章A「デカルト対スピノザ」) 
21世紀の状況を鑑みれば、ファンダメンタリズムというより、目的因的神論(学)と言ったほうが分かりやすいかもしれない。

さらにスピノザは、「定理 二十三」においてこう語る。 
必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬ。(上掲書第一部) 
「変状」、がキーワードになろうか。

粗雑に申し上げると、神の属性を有限化の局面において保持すべく存在する(われわれを含む)万物のことである。したがってスピノザは、意志や目的を持たない「第一原因(自己原因)」としての神の必然性に、有限な万物内部あるいはその相互間に見出される「生起原因」すべてが包摂されている、と見る。

スピノザの思索に立てば、上で言及したヨブの不条理への解答は、以下のようになる。 
すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである。あるいは(もっと本源的な言いかたをすれば)、神の本性の諸法則は、定理一六で示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからである(上掲書第一部) 
エリフの弁証は、この「直観知(scientia intuitiva)」あるいは「第三種の認識(cognitio tertii generis)」にいたる水路として設けられたものであった、とわたしは読んだ。

「教書」としてはじゅうぶん成立しているのである。

教会の内外を問わずわたしたち信仰者が、「帰無知法」に毒され、エリファズ、ビルダド、ツォファルなどのように糾弾的になってはいないかどうか。ヨブのような人物を疎外して、あちらこちらでサロンなどを形成してはいないかどうか。「ヨブ記」の問いかけはあまりにも大きく、キリスト者全員に向けられたまま剥き出しになっている。エリフという模範解答がありながらにしてである。

なぜなのか?

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