文部科学省による「道徳教育の充実に関する懇談会」の委員名簿を見ていると、絶望的な気分になってくる。
そこに孤児がいない寡婦がいない病人がいない罪人がいない、そしてそもそも道徳を蹂躙する者がいない。つまり「懇談会」とは、塵ひとつ落ちていない無菌の会のことだったのだ。そんなところの床だけを見て人を見ず、お互い何度も何度も同じところを掃除する振りをして何がそんなに楽しいのか、と愚痴りたくもなる。
さてこのところ少しレヴィナス続きであるが、今回の主題にも参照してみたい。
聴講者のノートなどをもとに復元された講義録「証しと倫理」のなかでレヴィナスは、「倫理」の極域で生起する出来事をおもいっきり冷却しこう述べている(1976/04/23 ソルボンヌ大学 『神・死・時間』に収録)。
倫理は、元来総合的な経験の統一の炸裂を意味しています。(合田正人訳)上述した仲良し小好しの「懇談会」内部の議論とは、ムードが違う。有無を言わさぬ説得が、ここにはある。読む者の省察を羽交い絞めにする圧倒がある。滞留しようものなら、呼吸困難に陥りそうだ。
レヴィナス(のような体験の保持者)の表現には、口頭はもちろん活字においても、切迫を強く感じさせる過剰とも言えるほどの、しかしじつに豊かな類語反復(トートロジー)が等しく認められる。上掲表現も、「講義録」のなかに散布されたものうちのひとつである。
元あった順序に戻せばこうなる。
。。。<無限者>が有限なものを過ぎ越す(注)仕方。。。
(注)「出エジプト記」12章を参照されたい。(注)はアノニマス
。。。経験ならざる筋立て。。。
。。。主題化不能な<無限者>。。。
。。。相関関係なしに有限者と係わる<無限者>の逆説。。。
。。。<無限者>による有限者の凌駕。。。横溢。。。
。。。総合的な経験の統一の炸裂。。。
。。。経験そのものの彼方。。。
。。。他律から自律への反転。。。
。。。<他>による<同>の覚醒。。。
。。。表象を超えて、さながら盗人のように私の知らぬ間に私を触発する他人の非 - 現象性。編者の「註」を含めてもたったの5ページ。そののなかに、およそこれだけの表現が散布されている。単独で使用されていた類語を含めれば、もう少し増える。
教育的背景がどうあれわかる人は、言葉酔いするため長居は嫌うが、この種の表現のかたわらに漂う気配に心中ソウダソウダソウナノダと盛んに相槌を打つ。。。しかしわからない人にとっては、眠気を誘う退屈極まりなき文様の連鎖にしか映らない。わたしは前者のタイプである。そうでない方々をわたしはほとんど判別できる。なぜなら、循環論法にはなるが、わたしが前者のタイプだからである。逆は真ならずだ。
同じ表現を眺めながら、どうしてこうも反応が違うのか。
フッサールの標準モデルを反転させ形而下に引きずりおろす強引な実験を通し、わたしなりの予測はすでに述べておいたので(→体験・・・の機序1・2)、以下少し展開を変えてみたい。
たとえば「いじめ」とは言うが、人目には見えないからこそ「いじめ」なのである。人目に見えるものは「見せしめ」と呼ぶ。なのに教育者は見つけようとする。どうやら「いじめ」は見えるもの、と頑なに考えているようだ。よしんば見つけられたとして、もはやそれらは「いじめ」とは言えない。現場の先生方はもちろん教育行政担当者は、この「いじめ」の巧みな変容性・変態性に無関心を装ってきた。ここに「道徳教育」という言葉の罠が潜んでいる。「道徳教育」とは、彼らが思うほどきれいごとではないのだ。
もっとはっきり言おう。
懲役に服しても再犯率は非常に高い、という事実がある。これは、懲役が道徳ではないということの証しである。ならヤクザの「指詰め」はどうか。なかには数か所、という人もいるだろうが、大抵は小指の第一第二関節で止まっているではないか。ヤクザになろうという意志を持ってこの地球上に誕生した者など、ひとりもいない。渡世の行きがかり上、荒ぶる我が魂を鎮めることができずヤクザになった者のほうが多かろう。だからこそ仁義に反する可能性も高まる。それでもそこで止まっている。これは道徳か?
二者択一なら、わたしは道徳だと応える。
三度四度とたび重ならないのは、見えないものを彼らがどこかで感じているからであろう、とわたしは思っている。さきほどの教育者とは、正反対である。むしろレヴィナスの奇異な一群の措辞のほうにより多く重なってはいまいか。
当然のことながら「道徳教育」とは、罪/罰の天秤である(司)法の終点から開始する。ほとんどの人々を対象にするのはそのためである。しかし厳密に申し上げれば、一筋縄ではいかぬ狡猾さと悪智恵とを法の領域に下落させることなく高度な理性のなかに包み隠しえている人、つまりは自我の恒常性(同一性)を疑う契機を逸した状態のままで「神人」になってしまっている人。こういった人々にこそ「道徳教育」は必要なのである。子供/成人の区別なくそうである。
陰湿な暴力や攻撃への衝動や意志は、そういった心性と親和的である。こちらのタイプをまずは殲滅すべきだ。そうするとおのずから、刑罰の対象者は減少傾向に転ずるであろう。これがわたしの「とんでもない仮説」である。歴代のエリート・インテリたちが、戦後民主主義を総括する勇気を持とうとしないかぎり、わたしのほぼ妄想に近い「とんでもない仮設」は生き続けるのである。
そもそも自我構造の瓦解を通して倫理的メッセージに激しく感電した人に、「道徳教育」など不要なのだ。その感電への記憶が、その後その人が遭遇するすべての倫理的局面における司令塔として「先立ち」、その情動・思索・言動を強力に統御統率するからである(あるいはするかのように感じられるからである)。レヴィナスが懸命に「経験ならざる筋立て」と言ったり「経験そのものの彼方」と呼んだり「表象を超えて」と表現したりしているのは、およそこのような出来事に感応することのできた者に許された現象学的表現、とみなすことができる。
こうなると「道徳教育」とは、人間理性への態度決定を保留にしては語りえない巨大かつ深遠な主題にもなってくる。文科省「懇談会」が考えているような教科教育には、到底納まりきらない主題であることがお分かり頂けよう。指導者の指導技術(論)の意義など、吹っ飛んでしまう。
思うに、あの旧約聖書に収録された「ヨブ記」の主人公ヨブの長々とした釈明の基底には、いわゆる理性の岩盤があった。しかし神はその理性の岩盤とは非連続な不定時空間の炸裂としてヨブを襲撃し、そしてヨブを救済している。そこにピントが合わないから、「あっけなく」も「ぶざま」で「中途半端な」顛末だ、という印象から多くの人が抜け出せないでいるのだ。
この「非連続な不定時空間の炸裂」が先行し、そして「はじまり」と「終わり」が物語を物語たらしめる「つがい」として誕生したのであって、その逆ではない。したがって起源からすれば、物語-外-読者としてではなく物語-内-読者として読む以外、わたしたち人間には許されてはいないのである。流離(さすらい)の折々にさまざまな文化を摂取排泄しながらもヘブライの民みずからがみずからに要請した、それが究極の倫理であったのであろう、とわたしは強く感じている。
「古事記」「風土記」を小脇に抱えた若者など、この日本のどこにも歩いてはいない。この紛うことなき現実を独創的に哲学することが、今求められている。わたしが万が一にも学者であったなら、そう提言して下野したであろう。
たかが道徳教育、さはあれど道徳教育である。
「懇談会」委員諸氏には、路地裏を隈なく歩き、そこに住みつく以外術のなかった人々(NINGEN)の姿をしっかりと目に焼きつけ、そしてみずからをしてみずからに振り返らせてから議論せよ、と一言したい。そうでないと、必ずまた失敗する。いやもうすでに何度も失敗してきたのだ。莫大な予算計上にもかかわらずその責任など一度も問われたことのない不公平極まりなき無菌の楽園、それが「〇〇会」なのだから。
わたしの命とわたしの魂の著者に感謝しながら。
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