しかし不可能ではない。
ただし「不可能ではない」その地平を開示するためには、みずからの関心を次の二つの条件の緊縛に委ねなければならない。ドグマチックな牧師の弱点のおよそが、そこにある。
- 前(非)人称性
- 解釈学的循環(状況)
2に興味のある方は、A little bird のさえずりなどに撹乱されることなく、本家を訪ねていただきたい(→ハイデガー『存在と時間』31節~33節など)。
今回は1について少々。。。
そもそものトゥリガー(引きがね)は、フッサールの『デカルト的省察』であった。「間主観(性)」という用語がそうである。心の病が社会事象となるや、猫も杓子も誤用した時代が日本にもあったことから、聞き覚えのある方々もおられよう。
この用語自体、直後、ハイデガーが探り当てた「時間性」の地層に埋没してしまったかに見えた。それがハイデガー特有の戦術であったことは、精神病理学への飛び火で分かる。
それはたいへんな山火事をひき起こし、そしてようやくにして鎮火した。
その焦土を眺めていた男がいる。メルロ・ポンティその人である。「前(非)人称性」とは、この人の用いた術語である。
ここまでがザックリとした系譜でござる。
さて「前(非)人称性」であるが、これは言うところの概念ではない。なにがしかの様態とその在り処を指示する、いわば記号である。したがって、論理学の措定機能(同一律、矛盾律、排中律など)一切とは、無縁である。
「わたし」と「あなた」で考えてみよう。
- 「わたし」は「あなた」ではない。「あなた」も「わたし」ではない。「あなた」から見ると、「わたし」はいつまでも「あなた」という名の「わたし」だし、「わたし」から見ても、「あなた」はいつまでも「あなた」である。したがって、「あなた」が「わたし」になることもなければ、「わたし」が「あなた」になることもない。
しかしもう一方の実際においては絶縁していない場合がある、ということをもわたしたちは知っている。その真偽はさておき、「あなた」に涙する「わたし」がいるし、「わたし」に笑みを返す「あなた」もいよう。
なぜなのか。。。がそもそもの議論の発端である。
「わたし」と「あなた」を、二次平面で眺める限り、どちらも個体生命のヴァリアント(異形態)の域を出ることはない。
しかしながら三次底面(あるいは四次最奥所)から見ると、それぞれの個体生命の生成と消滅とが統合維持されるその等価性に担保されながら、それぞれがそれぞれにヴァリアントたりえているにすぎない、ということが分かってくる。
この「等価性」が、「前(非)人称性」という記号が指し示す様態であり在り処である、と大雑把に申し上げておく。ただわたし自身は、「等価性」であれ「前(非)人称性」であれ、さらにそのヴァリアントを直観する者である。
ホッ。。。ようやく「イエスの生い立ち」に漕ぎつけたワイ。
マタイ1章?それともルカ1章。。。?いやいや、それらは牧師先生方の宝物。
へそ曲がりのアノニマス。マルコ「福音書」9章10章の「子供(たち)」に体当たりーーー!
この9章(36節以下)10章(13節以下)に記述された「子供(たち)」に関する牧師説教を読めば、二次平面(形而上学)をただ彷徨することだけしかできないでいるみずからを、アプリオリなキリスト論によって懸命に弁護しようとしているのが、じつによく分かる。
テキスト解釈以前に刷り込まれた項目は、おそらく次のようなものであろう。いわば「虎の巻」である。
- 神の国入場資格を満たす「子供(たち)」
その後は定石通り、このアンチノミーに聴衆である信徒を巻き込み、変動する教会情勢を鑑みつつ、ときに激しくそして時にそれとなく二者択一を迫る。
。。。とまあ、こんな感じでござるなぁ。。。
「虎の巻」どころか、これでは「虎の威を借りる狐」じゃねぇ。
そもそもイエスの言動を思惟の二次平面に変換するのは、ヘレニズムにしてなせるわざである。言動という「生命の現実(Lebenswirklichkeit)」は、その意味からすればヘブライズムの圏内にある。
沈黙も含めて「言動」とは、なにがしかの時間の先端にそのつど現出するもので、あくまでも「出口」なのである。「出口」には「入口」がなければならない。しかしその「入口」は、三次四次底面(最奥所)からしか現象しないものである。見えるものもあれば、見えないものもある。
したがってその現象の全過程において、時間は不可逆でもあれば可逆的にもなり、その時間の奇怪なダイナミズムに晒されながら、さらに体験を核とする多様なバイパスが幾重にも脈打ちながらそこに堆積してもいるのである。
わたしたちの知識や思惟や知恵などは、「出口」付近に遅ればせながら張られた葦簀(よしず)にすぎない。
さて、なぜイエスは「子供(たち)」を引き寄せたのであろうか?
引き寄せるためには、それ以外のもの(者)を遠ざけなければならない。使徒であり群衆がそうであった。
しかしこれほどの多勢をイエスから遠ざけた「子供(たち)」とは、いったい何者なのか?そのなかのどの子供を、イエスは抱きかかえたのであろうか?
前(非)人称性にヴァリアントを設ければ、この場面でイエスが使用したとおぼしき「子供(たち)」という語は、暗黙の了解を含む固有名詞に限りなく近いものであった、と思われる。
孤児もいたであろうし、やもめの子もいたであろう。そして不本意であったろう混血児も。。。
ここでイエスの内的時間が、マタイ1章の出来事へのバイパスをすでに逆進していたことが分かってくる。
ヨセフとの婚前交渉がなかったマリアの受胎確率は、あくまでも等分である。それが受胎した。聖霊と受胎することなどありえない以上、まさに事故事件に匹敵する出来事である。国家体制の特性を勘定すれば、異邦人の血との受胎説を否定するのは難しい、とわたしは感じている。
この出来事の手打ちは、霊夢とそこで語られたイザヤ書の一節に委ねられた。ユダヤ人信仰集団のコンセンサスとして、当然の処理ではある。が実際は、筆舌しがたいほどの困難と試練があったであろうと思われる。霊夢を見た父親ヨセフがその後一度も登場しないのは、まさにそのことの沈黙の証しである。
体験を核とする以上のようなバイパス内でのイエスの激しい内的時間の往復運動は、ヴァリアント(異形態)としての「前(非)人称性」の地層をあぶり出すばかりか、その地層のアドミッションを経て、他者との相互洞察をみごと和声として合成する必要条件にもなっている。
イエスのこのいわば存在論的機序は、「福音書」のここかしこに秘められている。たとえば、マルコ7章に登場するシリア・フェニキア生まれの異邦人女性との間などにも認められる。
話題を受胎確率の等分性に戻し、ヴァリアントのさらなる底面(最奥所)、「根源的前(非)人称性」というものに少し触れて終わりたい。
結論から申し上げると、この等分性を粉砕する出来事がイエスを襲わなかったなら、イエスはただのごろつきの一人であったろう。
精神病理学者であり臨床医でもあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)は、次のような言説を残している。
- われわれが熱情的に帰依し、または期待していたとき、突然この期待していたものにあざむかれて、世界がいちどに「別様」になり、完全に拠り所を失うことによって、この世界における支えがなくなったとき、われわれはのちに、再び獲得した堅固な足場から、当時を回想して「あのとき、稲妻に打たれて天から落下したようだった」という。(「夢と実存」1930年 荻野恒一訳、『現象学的人間学』所収論文・みすず書房)
突然性とは、連続性を引き裂き、寸断しあるいは分割し、これまでの生存をその軌道からそらせて、怖ろしいもの、あらわな恐怖のまえにすえるものの時間的性格だ(上掲書所収論文「精神医学における現存在分析的研究方向」1946年 宮本忠雄訳)
ヨルダン川でのイエスの洗礼は、そのような事の顛末の一等象徴的な記述となっている。
生成と消滅とが織りなす、その絶えざる「今」の排出孔が見えるとき。それは、顧みられることなどほとんどない「わたし」の、そして「あなた」の「今」が砕け散るときである。そしてそのときしかない。
その予想だにつかない「今」の破砕とともに、「根源的前(非)人称性」の大地が顕れ、「あなた」と「わたし」を軽々と持ち上げるのである。それが「わたしたち」に、A power greater than us というものを戦慄のさなか洞察させてもしまうのである。
イエスは、その「生命の現実(Lebenswirklichkeit)」を確実に通り抜けた人である。
「子供(たち)」を引き寄せ、そして抱いたイエスは、すでに他者を二重に超越している。だからこそ使徒はじめ群衆たちは、その圧倒的なイエスの信仰の気配と仕草に、いつも思わずたじろいでしまうのである。
わたしが信じてるのは、荒野に咲いたそのようなイエス「の」信仰である。教会に籠城し、しかも時勢に右往左往する現代の奇々怪々なキリスト教ではない。