2013/11/27

特定秘密保護法案第五章のポテンシャル


An onymous わたしは生き方がまことに下手な人間、と言うか、そもそもが流れに掉ささずには生きられない性分もあって、この期に及んでもなお世論の拍動から逸脱した不整脈な標題を掲げざるをえない。最近はそんな自分に嫌気がさし始めているのだが、すでに遅し。最後の関門もこのままぶっ飛ばす以外ない。皆様方にあってはどうかアノニマス文体に巻き込まれぬよう読み流して頂ければなあ、と願っている。


さて特保法(全文参照)第五章を、今後はいざ知らず、現段階から議論の俎上にのせる人はあまりいないであろう。もちろん、それはそれでいいのだ。「時」が熟していないだけである。未だ熟していない「時」を語る人、そのような奇特な人、選ばれた人を、人類は予言者ならぬ「預言者」と呼んできた。皆様ご承知のとおりである。

するとわたしは預言者?

いやいや、そういういかがわしげな話では毛頭ない。わたしはただの市井人。ただこの市井人と自称する「わたし」にはいささかヤンチャなところがあって、なんと、この特保法第五章 適正評価2の一項から七項までのうちのおよそ六項目にも該当してしまう。つまり私のような人間は、「特定秘密の取扱いの業務を行った場合にこれを漏らすおそれ」のある者、という審判を受けざるをえないいわば不適正者なのである。否定するつもりはないが、いい気分はしない。もっともこの法案自体、「特定秘密の取扱いの業務」を行う資格ある人間・業者に限って適用されるということではあるが。

ところで、

「特定秘密の取扱いの業務を行った場合にこれを漏らすおそれ」の「ない」者と「ある」者とを振り分けるこの活字を装った素振りは、言うまでもなく最高権力者集団の総意によるものである。オルターナティヴな「振り分け」が法案として制定されていること自体、最高権力者集団総意の半自律的な統覚性を証明している。つまり、権力が自分固有の権力の専有面積を誰はばかることなくみずから書き込んでいるのである。これは「暴力」ではないのか。それが証拠に「おそれ。。。ある」者たちは、たった七つの項目にその実存をまったく剥され、すでに匿名者としてみごとに類化されているではないか。わたしが確認したいのは、このただ一点である。再度、これは「暴力」ではないのか。

人を煮ても焼いても罪の意識が生起しないのは、煮て焼かれる人の値高い固有性=実存性が類化・匿名化されることで石ころにもなれば虫けらにもなってしまうからであることを喝破したのは誰か?フッサールやハイデガーの卓越と天才を心から認め継承しつつも厳格に批判することを怠らなかったあのエマニュエル・レヴィナスではなかったか。9.11だけでなく3.11すらも、すでに一部が風化しつつあるのがなぜなのかを、わたしたち市井人はいかほどかの静寂の中で一度は考えてみるべき時である。わたしたち市井人の心魂にも、他者の実存を剥奪し類化・匿名化して踏みつぶす、もみ消す、闇に葬る、捨て置く等の性癖が本当にないと言えるのかを、同じように確認し問うてみる必要がありそうな気がする。

いや~それはチョッと大袈裟じゃ。。。と言われる方々には、次の一節にぜひ立ち会っていただきたい。

新約聖書の最後となる「ヨハネの黙示録」であるが、その最終22章19節にはこう書き残されている。
この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
当時からして既に改編改ざん行為が、消すことのできない人間の深刻な性癖となっていたことを示して余りある記述である。上述した七項目がある日突然ポコッと剥がれ落ち、全く異なるコンテクストにスッポり納まっても、少しもおかしくないのだ。
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