Friedrich Nietzsche |
★前回第16回から、愛読者様ならびに著者の負担を軽減するため、一節ずつの散策となっております。
136節をどうぞ。。。アーカイブはカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒
原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。
)))136節(((
Der Eine sucht einen Geburtshelfer für seine Gedanken, der Andre Einen, dem er helfen kann: so entsteht ein gutes Gespräch.
或る者は自分の思想の助産者を求め、また他の者は自分が助産しうる者を求める。このようにしてよい対話が生れる。++++++++++
1900年8月25日、濁流のような人生に最後まで連れ添った妹エリザベート、その彼女ただひとりにみとられ、ニーチェはこの世を去ります。近寄る友は誰一人なく、すでに出版界からも見捨てられていたと言われています。
この「箴言と間奏」の各節が収められています『善悪の彼岸』自体は、1885年から86年にかけ執筆されたもので、病魔がその牙をむけはじめるすこし前の作品です。
ニーチェのパースペクティヴ(拘束された視座)の特性については、この「箴言散策集」の在在所所において触れていますが、本書四十三節のくだりにはこんな叙述もあります。
多数者と一致したいという悪趣味は棄てられなければならない。「よい」ということも、隣人がそれを口にするときには、もはや「よい」ではない。そこで、「共有のよいもの[共有財]」などというものがどうしてありえようか!この言葉は自己矛盾である。共有でありうるものは、殆んど常に価値のないものばかりである。これほど堅牢な「意志」を秘めたニーチェではあるのですが、上掲の箴言を眺めていますと、とてもおだやかな気持ちにおいて書かれた作品のように感じられます。
もちろん「よい」ものは、「対話」であれ何であれ、「意志」と「意志」との邂逅(かいこう)がなければならない、というニーチェの信念は伝わってきます。しかしながらはたして、そもそもそのような「対話」が可能であったのかと問うてみますと、事実としてはいくつかの試みを確認することはできますが、どれもこれも簡単には良い実を結ばなかったようです。
いまめかしき言葉を使えば、ウィン・ウィンの関係ってことになるでしょうか(笑)。言うほど簡単ではなさそうです。言葉だけが暴走してしまっているようですね。「人間」とは一筋縄ではいかない生き物だ、ということに尽きてしまうのでしょうかねぇ。。。
ついでながら、
誰もがどこかで一度は耳にしたことがある言葉が、マタイによる「福音書」第七章に記されています。
求めなさい。そうすれば与えられます。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(いのちのことば社刊『聖書』より)これなども、「意志」と「意志」との、いわば(万が一の)邂逅と言えるものです。
ギリシアのみならず幅の広い古典文献学者であり、しかも『聖書』にも精通したニーチェが、この一節を失念していたとは考えられません。真似たわけでは毛頭ないでしょうが。
ニーチェの著作を初めてお読みになられた方々はとても苦労されただろうと思いますが、特にニーチェの後期著作では、哲学者批判とキリスト教批判と近代批判が混在しており、まるでモダンアートのように複雑な叙述スタイルや構成を生みだしています。
そのうちの哲学者批判とキリスト教批判とを辛うじて繋いでいるもの、そのひとつにプラトンを見い出すとすれば、上掲の箴言をソクラテスやプラトンなどの「対話(弁証)」法への対抗として企図されたパロディ、と解せないこともありません。ニーチェのことですからねぇ。。。
いやあ、箴言って、ほんと面白いですね!
(2008年06月12日 記)
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