思い通りに事が運んだ時、わたしたちは誰よりも先に「みずから」を精一杯の安堵や満悦で祝す。そうはならなかった場合の歯ぎしりの程度や悔恨のぶざまを、百も承知しているからである。その祝祭がおしなべてド派手になるのは、それがためであろう。
わたしたち「人」は、みずからを開花させた光の加減に応じて恩寵を感じ、そしてみずからを飲み干した闇の度合いに応じて呪いを感じてきた。霊長類となってこのかた、この心模様が色褪せた時代など、ただの一度もないはずだ。
しかし仮にも。。。
前者と後者の入れ替えが可能であるとして、はたして前者が後者のように、また後者が前者のようになるとでも言うのであろうか?
極端な作り話をお許しいただきたい。
搭乗予定にしていた飛行機を急用でキャンセルしなければならなくなった、と仮定しよう。
離陸後ほどなく、その飛行機がエンジントラブルで海上に墜落した。
もし予定通りその飛行機に搭乗していたら、わたしはどうなっていたであろうか。
この出来事を話すわたしに対し、わたしに関与するおよその人々は、「でもホント搭乗しなくてよかったねぇ。。。」、と残酷にも少しは胸をなでおろしてくれよう。
だがしかし、
今のわたしには、彼らが思うようにはとても思えないのだ。
もしわたしが搭乗していたら、その顛末を詳細に描写するのは困難だが、おそらく「墜落」という事象とはいささか異なった世界が大空に現象していたであろう、と強く感じるのである。自分が搭乗しなかった飛行機と搭乗した飛行機とが同じものだとは、わたしにはどうしても思えない。まったく異なった状況が開示したであろうと考える方が、今のわたしには自然なのである。「搭乗」を延期したからこそ「墜落」した、とさえ感じることもある。
「わたし」の刻一刻に選ばれなかった無限数の可能的世界は、瞬間的なただ一回きりの選択によってそのつど消えてなくなったのではない。「わたし」の選んでしまっているこの世ではついに選ばれなかった、ただそれだけのことなのだ。だからそれら無限数の可能的わたし・可能的世界が、どこか思いがけない次元ですべて現実態となって展開していたとしても少しもおかしくない、という妄想がわたしに取りついたのだ。つまり「わたし」は、今この瞬間、この世の「わたし」を含めてなお無限数どこかで世界内存在している、ということになるわけだ。
その無限数のわたしが何をしているのか知解不能であるのは、統覚自我の無数のケーブルが無数に切断されているからにすぎない。それが、異次元に生息する無数のわたしに「わたし」が超越できない理由である。超越はできないが、気配は与えられている。それでじゅうぶんなのだ。
このようにいささかなりとも狂気じみた想像の尾根に立ってはじめて、「世界内存在」という統語のベールが剥がれ落ち、自己愛と隣人愛だけがいつまでも点滅し合う縹渺たる風景のなかに立つ「わたし」を、わたしたちは眺望することができる。
是非はどうあれ、自分一人の一生の素振りが七十億すべての生の瞬間の布置に絡みついていることを知る、あるいは知らされるのはまさにそのときである。
この一瞬間を疎(おろそ)かにしてどうして、自分を値(あたい)高い者として愛し、しかも他人をも愛そうなどというだいそれたことを欲求することなどできよう。
「自分を愛しています」、と言える人は少ない。
それは照れ隠しではなく、惜しみなく奪うほどに他人を愛することができないでいることの負い目なのである。
わたしの最愛の姉貞子は、三十七歳で夭逝した。わたしは三十三歳であった。幾度目かの病室のなかの姉はわたしにこう呟いた。「もうなにもせんでええよ。姉ちゃんは、しあわせやった。。。」、最後の言葉である。
この世に残しておきたかったものすべてを姉はきれいにさらってみごとに地上を離れた。弟の負うべき責任もすべて背負うことを忘れなかった姉の言葉のそのあとの抜け殻は、じつに骨と皮だけであったのだ。
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