「病は痛苦しない!」(当ブログ内記事 2011/12/21)を書き下ろして、来月で二年。自覚症状の始まりから数えるとおよそ四年の歳月を、わたしのパーキンソン病は一気に平らげた。病状の進行を否定するには遅すぎる地点にまで、どうやらわたしは無事到達したようだ。
と打ち始めて、自分の日本語がどこかしら歪んでいるのに気がついた。
「病状の進行を否定するには遅すぎる地点にまで、どうやらわたしは無事到達したようだ。」ダッテ???重文を複文化したように不安定な構造、語の不自然な共起関係、意味の奇異な衝突、二重化された時制のほころび(内部時間と外部時間の交差)等、意識してそう打ち込んだのではまったくないが、はやくも小休止ということになった。
たぶん、打ち込み寸前のいわゆる「レディー。。。」から「ゴー!」までの時間がいくぶんか長すぎて、そのあいだにわたしの「思い」がさきにこぼれ出してしまったのであろう。いわゆるフライングである。
フライングを引き起こすほどの「思い」とは、症状の浮沈にたえず翻弄されてはきたが、「病は痛苦しない!」(2011/12/21)を書き下ろした時点での拙い「救済知」を今もわたしは無造作に実行しており、結果として日々苦悩苦痛のただなかを生き抜く沈黙の「証人」たりえている、という伝言である。治癒不可能な病に襲撃されておられるご本人方々はもちろん、その方々のご家族ご友人お一人お一人に受け取って頂きたい、と心から願うわたしの伝言なのである。
ニーチェは、こんなメッセージを残している。
互いに理解し合うためには、同じ言葉を用いるだけではなお十分でない。(『善悪の彼岸』268節)そしていささか強引に、こう呼びかけた。
同じ種類の内的体験に対しても同じ言葉を用いなければならない。(同書同節)言語学的大事件のひとつソシュール(1857-1913)による「ラング」と「パロール」の使い分けが(注)、ニーチェの没後ほどない時期に対応していたことを考えると、この呼びかけの先見性には驚かされる。
しかしパロールから逸脱せずに「内的体験」を伝達するとは、それほど簡単な言語行為ではない。うまく書ける・うまく話せるという予想のことごとくが、みごと覆されるのだ。「病は痛苦しない!」の表現が入り組み、所々混線したりもしているのは、「わたし」を語ることに始終まとわりつき剥がれない強烈な恥辱感と屈辱感がためである。これはもはや試練である。(注)テクスト解釈により定義に幅がある。当面は、ラング=言語運用主体を匿名にして成立する当該言語の規範的特性に力点をかけた術語、パロール=個々の実名の言語運用主体に責任の所在が託されたそのつど一回限りのアクチュアルな言語行為を強調する術語、と理解してよかろうと思われる。
「病は痛苦しない!」の骨子だけを素描しておく。(全文閲覧は、右サイドバー一発検索に標題をうちこむだけで、今ご覧のページ上部に該当記事を同時表示することができます。)
痛苦する(苦痛を対他化する)のは巧妙に構造化された意識であって、病そのものではない。したがって病と痛苦(苦痛)は癒着しているのではなく、関係を成立させる隙間を必ずどこかに温存しているはずだ。その隙間を見出し肥大させて、病自体にひたすら向かおうとする意識の軌道をずらすことに成功しさえすれば、痛苦(苦痛)は大幅に緩和し、そのぶん自分の生がまるで引き延ばされたかのような喜びの束の間を体験するであろう。
発病からおよそ二年かかって熟し到来した体験であった。どこで熟しどこから到来したのか。。。それはわたしにはわからない。その危うき延長線上をそれから二年後の今もなお、ふらふらとひとり歩いているのだ。
標題の「レヴィナス的補記」とは、次の一節を指す。
苦しみは、それがほかならない苦しみの意識であるがゆえに苦痛に対して隔たりをたもちつづけ、したがってまた苦しみが英雄的な意志に反転することもありうる。運動の自由をすべて奪われた意識が現在に対してなお最小限の隔たりを有しているこの状況、それでも絶望的なしかたで行為と希望とに転じようとする、この究極的な受動性が「忍耐」である。(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』第三部のC 熊野純彦訳 原本初版1961)ご承知のとおりレヴィナス(1906-95)は、あの収容所の体験者であった。帝国ロシア領内で生まれてのち、幾多の遍歴を強いられながら、ついにはフランスに帰化した生粋のユダヤ人哲学者である。本主著のいたるところにレヴィナスが「パロール」という術語を敷き詰めている。その意図はおそらく、上述したニーチェに予感されソシュールによって定式化された「パロール」を、石打の刑の「石」として仕込み直したものではなかったか、とわたしは感じる。もちろんその「石」の数々はどれもこれも、人間を匿名化することでいとも簡単に成立してしまう全体(主義)の息の根を止めるためのものばかりである。
ニーチェとソシュールとレヴィナスが平和裏に寄り合い、そしてわたしのなかで優しく溶解した。このいっときに流れ落ちた涙こそ、わたしのわたしへのパロールであった。統合は果たされている。
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