::小学三年生の秋、九歳になったばかりの頃に、わたしの楽園物語は予告もなく途切れた。
以来五十三年、待つには待ってみたが、その続きを知ることはついぞなかった。しかしなぜそんなにも長く、馬鹿正直にわたしは物語の再開を待っていたのだろう。
九歳までの記憶はどれもこれも、溺れるほどの幸せと歓喜のなかにあった。
上町(うえまち)台地一等の高台、大阪は天王寺区伶人町にある名門星光学院の初代校長、サレジオ会出身マルジャリア神父との出会いもそのひとつである。
星光学院の広い広いグラウンドに勝手に入っては、薫風(くんぷう)と化してひとり狂ったように舞う小さなわたしに、ゆっくりと近づいてきた黒装束の異国の巨人、それがマルジャリア神父であった。
叱られると思い咄嗟にわたしはもと潜り抜けて来た秘密の門扉(もんぴ)を振り返り逃げようとしたが、マルジャリア神父はなにやら一言二言ぎこちのない日本語をつぶやかれ、この世のものとは思えぬほど白い雪のような歯を輝かせながら、羊の毛のように柔らかな笑みをこぼされた。
小学校も低学年のわたしは、金縛りにでもあったように立ち尽くすほかなかった。
マルジャリア神父は、装束の裾を長い指ですっと吊りあげて土ぼこり舞う大地にそのまましゃがみ込まれた。ちょうどいい塩梅に目線が合う。とても不思議な、しかし美しい眼の色であった。
さっきまでひとり踊り狂っていた少年。いま一言も物言わぬ「わたし」の、いったい何をマルジャリア神父は見つめておられたのであろうか。
マルジャリア神父は、そのとき身につけておられた何本かのネックレスのうちのひとつをはずし、おもむろにわたしのくびにかけ、そのままそっとハグし、そうしてから立ち上がり黙って去って行かれた。
その時のマルジャリア神父の目には、わたしの生涯のすべてが映っていたのかもしれない。九歳であったわたしに語るには忍びないほどの内容であったのだろう。
そのとおり、わたしは成人し社会にも出て、そしてなにもかも喪った。
しかし大切な命ひとつだけは、傷だらけにはなったが、この世にこうして押し戻されている。
わたしの楽園物語は、まったくに「途切れた」わけでは必ずしもなかったのである。
ただ顛末が結ばれるまでには想像以上の時間がかかる、ということであったのだ。
そこを勘違いし、はやく癒されようと焦って苦しむことほど、人間にとって苦しいことはないのだ。
忍耐とは、内外の急激な変化に「馴化(じゅんか)」するための「割り当てられた必要にしてかつ十分な時間の経過」を悟る(積極的に受容する)ことを言ったものである。忍耐は「馴化」を信じることによって刻一刻実現する。「馴化」を信じなければ、そこで終わる。それ以上でもそれ以下でもない。
その意味において無神論者というのは、ただの言葉であっていわゆる実体ではない。有神論者、という言葉もおなじである。成功しようが失敗しようが、忍耐しない人間など、程度に差こそあれ、存在しないからだ。したがって約70億の人間は、なにがしかの希望を抱くことを知っているという意味において、理屈上はみな信仰者なのである。
パウロにはやや批判的な著者ではあるが、忍耐のあとに「練達」を序列化したパウロの、体験に裏打ちされた判断(ロマ書5. 3-4)は高く評価されてしかるべし、と考えている。詳細は「練達は影?」(2011/12/01)を参照されたい。