三浦綾子、遠藤周作、曽野綾子、椎名麟三などを引き合いにだされる方々が多い会合などで、森鴎外!と開口一番ぶっきらぼうに言い放つ、そんな人が教会にたくさんおられればいいのになぁ、とわたしなんぞは妄想する。
『舞姫』はもちろん、およそほとんどの短編のここかしこ、濃淡さまざまに残された鴎外のキリスト教観・宗教観には瞠目すべきものがある。
数ある短編例から一点。。。となれば、『かのように』を推奨したい。通読するのに15分もあれば、皆様方には十分であろうと思う。ただし新約聖書中、「コリントの信徒への手紙 一」七章29-31周辺に記述されている使徒パウロ三重の時間認識(覚知?)を頭に入れておく必要はある。
結論はふたつである。ひとつは、「かのように」という表現で示された現世(世俗)への関わり方が真逆になっている点にある。鴎外は現世の生をまっとうせんがために嘘を嘘として受容する必要に力点を置いているのに対し(短編『寒山拾得』はその実験であろうか)、パウロは不定未来に預言された終末時(メサイアの時)到来への切迫感から、途切れそうなほど希薄な現世への信徒的関与のモデルを強調している。
もうひとつは、大戦後の西欧においてキリスト教の政教分離(いわゆる世俗化)が進み過ぎ、特にフランスやイタリアで第二のルネッサンス(聖書の新たな解釈を通じ政教分離・世俗化の質を向上させるための運動)が起きている点にある。鴎外の『かのように』の逆転は日本では起こらなかったし、現在も起こっていない。鴎外の考え方を逆転させると、アウシュビッツ、ホロコーストにいたるまでの西欧キリスト教の暗黒史に突入する。今起きている西欧キリスト教の大きな変化と教会回帰は、その暗黒史を限りなく踏み台としたものである。。。というふうになると、もう日本のキリスト教指導者の出る幕ではないということにもなる。そもそも日本のキリスト教史には、逆転を呼び寄せうる歴史的な要因がまったく存在しないのである。だからこそ近年、アメリカや韓国のペンテコステ派、聖霊派、いわゆるリバイバル派等に寄生するようになってしまっているのであろう。
ところで『かのように』は、鴎外五十歳(1912)のときの作品である。