ほっぺたの裏ではなく舌の右側真裏あたりに、直径5ミリほどの白みがかったものが出来ているではないか。
痛い、ってもんじゃない。
それとは知らず押しピンを踏んづけてしまった時のウッ!ッ!ッ!という感じ。そのあと言葉がまったく続かない、そうだ、まさに「あの」時の感じとよく似ている。しかも痛むタイミングがまったく分からないこの不気味さはなんだ?
痛みが走るたびに、ギョエッ!という感じはもちろん、そのつどの痛みに意識がいつも追い抜かれてしまっているような、じつに奇怪な屈辱感さえ感じるのだ。
ああ、なぜゆえ???
「痛み」が「意識」を追い抜きそして追い越す。。。なんてことは従来のフッサール現象学では考えられない。むしろ、「知覚」と共振する「痛み」を「意識」の志向(指向とも)作用(ノエシス)を介し「意識」対象(ノエマ)として構成しつつあるもの、それをさらにそのノエシス-ノエマ構造自体から(相互連関的に)分裂した純粋自我が別枠のノエシスを通し捉えている時、われわれは「痛い」と感じる、あるいは感じ続けることができている。乱暴な言い方だが、これが基本形であった。
しかしわたしが今どっぷり浸かっているささやかな体験に執着してみると、どうもわたしのなかで作動すべきノエシス-ノエマの循環機能は、上述の種のような「痛み」の瞬間、もしや停止しているのではとすら感じる。
たとえ瞬間であれ「停止している」ということは、ノエマが構成されていない、空位になっているということである。その空位を、純粋自我のノエシスといえども捉えることなどできるわけがない。捉えられていない限り、「痛い」とは感じないはずだ。しかしわたしは飛びあがるほどに「痛い」と感じている。これはいったい???
。。。とまあそんな風にあれやこれやと妄想していると、「痛み」が「痛み」としてだけ生起している段階のその再帰的自己経験(非-認識対象)、つまり本来は対他化されない一糸まとわぬ「痛み」自体(即自)の剥き出し性のようなものが、今述べたノエマの「空位」に突如侵入し、同時に純粋自我のノエシスの恒常的な働きにも不具合を生じさせているのではないだろうか、と思えてもくるのだ。
もちろんその場合の「空位」は、ノエマ化される以前の「痛み」それ自体の謀略により事前に仕掛けられた狡猾な装置である。言わずもがな、純粋自我を威嚇しその作動を封じるための。。。である。だからその瞬間、言葉が出なかったり、屈辱感(敗北感か?)を抱いてしまったりするのではないだろうか。あくまでも可能性としての話ではあるが。
さてこのあたりからミシェル・アンリの思索に迂回し、キリスト教の「啓示」の話題に接続することを直観していたのだが。。。
続きはまた別の機会にしましょう。
あまりにも痛すぎるのです、舌の裏の口内炎が。
たかが口内炎、ああされど、されど口内炎上するが如くなれり。
あいや、いかにせましな、いかにせましな。
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