歳末にわんさともらった薬はどれもこれも四週間分。ほとんど服用した。
わたしなどまだ少ない方かもしれないが、それでも劇薬含めかなりの量である。
便通もとうとう十日に一回。信じられないことが、当たり前になってきた。日を追うごとに食欲がなくなる。訴えると、下剤につぐ下剤。。。現代医学には、デリカシーというものがまったくない。脳味噌が絞られるようだ、と訴えると今度は鎮痛剤。血気盛んな頃のわたしなら、主治医をはり倒していたかもしれない。
薬剤というのは、治癒・回復することを疑わずに服用するのが最も似つかわしい、そんな化学物質である。
治癒する絶対不可能性を確定・宣告されながにして処方される薬剤など、当人にとっては土足で体内に入ってくる無粋極まりなき礼儀知らずな物質、としか感知されない。
効かない、合わない、信じられない。どこかしら。。。男女間に成立しては破綻していく恋愛にも似ているような気がする。あばたもえくぼであったものが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなってしまうのだから。
高齢者特有の疾病はもちろん、難病系やメンタル系に帰属が確定した者の苦悩はそこにもあるのだ。患者と医者との関係が、ほとんどの場合仮面夫婦同然になってしまう。そんな言葉の壊死(えし)した診察室での片時を、主治医と死ぬまで延々と共有しなければならないのかと思うと、待合室に座りながらもう居ても立ってもいられないほどの気分に襲われることが、わたしにはある。おそらく他の人たちもそうなのであろうが、術もなく、ただじっと我慢して着座しておられるのだろう。一言も語らずそのような推測にわたしを導くことのできるこの人たちは、なんてすごいんだろうと感じる。
パーキンソン病歴約四年目を通過しつつあるわたしの座っている科は「神経内科」である。ただ「老年内科」が同居しているため、案内板にはそれらの科名が併記されている。
その案内板が掛けられている間口をまずくぐってから各診察室に向かう、ということになるのだが、くぐるとき頭上に掲げられてある案内板の「老年」という表示がいつもとても気になるのだ。
確かに待合室には高齢者らしき人たちが多い。わたしもいつしか62歳になってしまったので、「老年」と言われてもそれほど誤っているとは思わない。
著者An |
ブログ「十字架の現象学」に投稿する記事のカテゴリーや文体から、「堅物(かたぶつ)な大阪のおっさんやんけ!」ってな風に感じられる場合もあるが、実際は身も心もめっちゃカジュアルな人間である。そんな人間に「老年」はないやろぅ、とわたしは言いたいわけだ。
パーキンソン病治療の革命などに、わたしが期待するものはなにもない。その恩恵は次世代の人が受ければよい。ただし門が少し遠ざかるだけであることを忘れると、絶望と苦悩はさらに大きくなる。そのことを納得しておく必要はあろう。
そんなことより、日々目減りしていく可能性をいかに継ぎはぎしながら生きるかにそっと思いを合わせ、そのパッチワークを、たとえ不十分ではあっても、自分のほうにぐっと手繰り寄せてみること、そのことのほうが今のわたしにとっては大事なのだ。そのささやかな営みの刻一刻は、パーキンソン病を含む難病奇病を背負う人々の個性と解放と自由の場を保つ最後の条件なのである。それを信仰者は、救済、とかっこつけて呼ぶのであろう。黙ってりゃあいいものを(笑)。
明日は思いっきり香水つけていくかってか!?病院なのに???
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