2013/11/04

『必要なる天使』点描

An onymous
ヴェネツィア生まれのマッシモ・カッチャーリ(1944-)は、その著『必要なる天使』(原本1986年 柱本元彦訳2002年)「日本語版序文」において、極東という特異な風土に成形されたわたしたちの精神を配慮し、微塵の躊躇なく「天使」という術語の寓意性を次のように開示してくれた。

本書が扱うのは、本質的に言葉へ(ad-verbun)としての言葉、明白な意味内容を超えてゆく記号としての言葉である。言葉が表示するものではなく、表示するものとしないものとのあいだの象徴としての言葉。言葉自体もまたけっして単純ではなく、幾層もの意味に覆われ多様であり(この複合体の探求は「哲学的文献学」あるいは真の「語源学」の核心をなす)、さらに生成する未来の意味をつねに孕んでいる。言葉はさまざまな源泉から生まれ、今この瞬間には言えない意味をもった声を予告する。このような言葉の象徴的な複合体が哲学の天使なのである。
序文におけるこの一節ならびにイタリア語文献翻訳作業の司令塔岡田温司氏の情熱的な「解説」が添付されていなければ、わたしごとき素人読者には、到底解読不可能な文献として打ち捨てられていたはずである。

その第三章「表象の問題」でカッチャーリは、ユダヤ人哲学者ローゼンツヴァイクの「詩篇」115への註釈を踏まえこう語る。
最大の偶像崇拝は、すでにあったという信仰であり、覆しえないそうだったという信仰である。(傍点を下線に変更An)
この不可逆な継起的時間への絶対的信仰が、救済が儚いほどの「今」という瞬間域へ現前することを阻止している、と彼は指摘する。

振り返ってみると、わたしたちもこの時間性格に従っているのだ。

「すでにあった」「覆しえない」と信じているからこそ、わたしたちは苦しむのである。この「偶像(過去)崇拝」に衝撃を与えて、その時間性格の箍(たが)を弛緩させ、そうすることを通じて、起きたことと起きたかもしれなかったこととを両翼にして後者を救済すべく「今」に肉薄してくるもの、それがカッチャーリの言う「天使」のメサイア的役回りでありその時間性格の一端である。当然。。。このような「天使」の居場所は、この世のどこにもない。

読後、わたしは小さな炎を見ていた。いまにも消え入りそうである。それでもじっと見続けた。あのマッチ売りの少女のように。「天使」ハ現レルダロウカ。。。たった一度の「突然」たった一度の「瞬間」のために/おかげで、あとどれほどの忍耐を重ねることができるのであろうか。

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