Αρχη του ευαγγελιου Ιησου Χριστου(アクセント省略)「マルコ福音書」の書き出しを現代ギリシア語の発音で読めば、およそこのようになる。太字は高アクセント。カタカナ表記ではこれが限界だが、雰囲気のいくぶんかは感じていただけるであろう。
アルキー トゥ エヴァンゲリウ イェスゥ クリストゥ
第一単語の「アルキー」は、通常「アルケー」と日本語表記される。
この「アルケー」に学術的処理をほどこしたのは、紀元前4世紀を生きたギリシアの哲人アリストテレスである。
アリストテレスは、『形而上学』第五巻第一章において六つの説明を列挙しているが、そのうちの第二番目に標題の「最善の出発点」という理解がある。
出隆訳によると、こういうことである。
なにごとがなされるのにもそれからなされ始めれば最も善くそのことがなされるであろうところのそれ「最も」である以上は、比較淘汰のプロセスを与件として成立した理解であると考えられる。
ところで。。。
これまでの新約聖書学の業績は、福音書自体の教団・教書的性格を否定していない。そうであるかぎり、エルサレム神殿陥落以前に姿をあらわした「マルコ福音書」も、マルコとおぼしき人が「書いた」というよりは、原型となった伝聞・伝承をベースに教団内外の幾多の事情をそのつど勘案しながら、そのようなものとして「落着した」と言ったほうが、まだしもであるかもしれない。
その後はご承知のとおり、小アジアを経由するだけでなく、イエス時代を共有するユダヤ人二世哲学者フィロンのいたエジプト・アレクサンドリアの新プラトニズムにもおそらくは予備的に洗浄されて、イエスの伝聞・伝承はローマに持ち込まれることになる。
国家的宗教再編のなかで予想されるべき伝聞・伝承の変容を回避する力が、すでに亡国の民となったユダヤ人になかったとは、なんという歴史の皮肉であろうか、と感じざるをえない。
わたしたちが読んでいる新約聖書は、そのような激動を経て生きのびた夥しい数の写本の、長きにわたる校閲・校訂の末に認定された底本(NA)の、そのまた雑多な翻訳(日本語訳)のひとつにすぎない。
さて、そのようなことにぼんやりと思いを馳せていると、上掲の「マルコ福音書」の第一単語「アルケー」が、「(福音の)始め・はじまり」という語の一次的な意味と、「マルコ福音書」を教書として用いた当時の教団が、いかなるエレメンツを「福音」の根源的なフレームワークにしようとしたか、あるいはせざるをえなかったか、という極みを経た「最善の出発点」としての判断とを、交互に点滅させているかのようにも感じてくるのである。
聖書解釈に終点はない。終点を定めた時、すべての解釈は逆立ちする。
0 件のコメント:
コメントを投稿