2014/02/22

気骨とは情念である

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帝釈峡雪景色4
帝釈峡雪景色4
posted by (C)やっぴ~
::俳人・江國滋(えくにしげる 1934-1997)氏も、そういったたぐいのお一人であったのであろう。知名度は、お嬢様(江國香織氏)のほうが高いかもしれないが。

江國氏が食道癌を告知されたのは、1997年の2月6日。同年8月10日が最後の日。今のわたしの年齢である。結果的に、辞世の句となる作品(おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒)(注)を書き留めたその二日後、ということになる。
(注)氏の覚悟は整っていたものとわたしには思われる。自らの死をもって癌を道づれにすることができることを確信していたのであろう氏の、この最後のユーモアに秘められた覚知は、潔く透明で荘厳だ。
わたしが今回手にした『癌め』(富士見書房)は、宣告から他界までの半年余りの間に日録のごとく創作された五百四十五句もの作品が、ただただ「その日」を追いかけるかのようにして配列された簡素な句集である。

しかしながら堪(こら)えていた箍(たが)が一度でも外れてしまうと、時をずらさずにはとてもそれ以上読み続けることのできない、そのような句集でもある。

五百四十五句のなかからたった一句だけというのは故人に対したいへん失礼なことだと思うが、その他多くの句に波だった数々の思い一切をわたし一人の胸のなかに留めおくことにし、次の一句をあえて選ぶことにした。
新宿駅西口地下広場にて 
羨望を覚ゆ寒風のホームレスに   2月17日
上述したように告知は2月6日。

この句ができるまで二週間経っていない。

当然とはいえ「告知」の衝撃の大きさゆえ、その瞬間音もなく垂直落下した魂が元いた場所を失念してしまっていたであろうことを想像するに難くはない。一瞬にしてバネがのびきって戻らなくなったのに似た状態、と言えばよいであろうか。

しかし江國氏の情念の動作は、深淵に落ちたその魂を探し慰めるどころか、はや虎視眈々と他の獲物を狙っていたのだ。

地下階段を目ざとく見つけては、忍び忍び降りてきたのであろう寒風。

その寒風に吹き晒されまいとして、ある者は新聞紙を体に巻きつけ両手を股に挟み込んではダンゴ虫のように丸くなる。またある者は、有りあわせの段ボールを器用に組み合わせてその中に精一杯体を窄(すぼ)め閉じこもる。なり振り構う人生などどこかに捨て置かざるをえなかった彼らは、一言も語らず、明日の約束も何もない夜を今まさに眠ろうとしている。ここにもあそこにも、ほらそこにも、そしてうしろにも。

足早に通り過ぎる人々のほとんどは、無頓着であったろう。

その無頓着こそ、ホームレスたちのせめてもの慰めであったはずである。そこに暗黙の了解と契約が成立しているのだ。

ところが江國氏のこの時の情念は、あろうことか地下広場に流れる人々を押しのけて、点在する彼らホームレスの姿態に向かっていたのである。

彼らが疎ましかったわけではない。もちろん興味本位でもない。まして見下げようなどという意図などさらさらなかったはずだ。不定型句でありながら、「寒風のホームレスにも」と調律しなかったところに、氏のまことの人間観が溢れ出ている。

ただ、その狂いなき手慣れた仕草や倦怠や諦念に彩色された一隅一隅の世界そのものすら、すでにいかほどかの健やかさに担保されたものであることへの大方の失念を、激しく揺さぶり呼び戻そうとする一途な衝動に襲われていたのであろうことは間違いないと思われる。そこを間一髪のところで自制した。そうして鎮火した後に立ち昇る白煙のような次の表現を待って、ようやくに俳句という鋳型に流し込まれたのであろうと感じる。
羨望を覚ゆ
寒風に晒されたホームレスを「羨望」すること自体がしてすでに、尋常な精神状態ではない。

しかしだからと言って、不幸の比べ合いをしようとしたのではないのだ。

むしろ、運命の神モイラへの激しい嫉妬と断固たる義憤を構造化し包み隠した不自由極まりなき羨望であったのだ。唇を震わさずには到底訴えられないあまりにも残酷な不義不公平をかみ殺しつつ、しかしあえて上の句にみずからの情念を慎重に選択し頭出しされた点に、さだめを告げられし人間に残された紙一重の生ける情念の動作に従われた氏の全き真面目(しんめんもく)を強く感じずにはいられなかった。その情念の描く軌跡に、わたしの魂がいかなる理屈よりも先に共振したのだ。

素直に読めば、たまらなく切ない句である。

しかし、憐れまれることを行く人行く人に縋りつくようにして乞うたか弱い句では必ずしもない。一皮むけば、すぐにでも立ち向かってきそうな、そんな力と緊張を秘めた句でもあるのだ。そこに、人間の尊厳とは何なのか、生きる力とは何なのか、といった問いに対するひとつの応答が示されているような気がわたしにはする。

「言葉の力」とは本来、そういう風に人を襲い圧倒するものであったのかもしれない。

このあたりで、巷間言われるキリスト教(プロテスタンティズム)教勢の顕著な衰えが、「言葉の力」の衰えでもあるという話題に急カーブをきるつもりで書き起こしていたのだが、なぜかしらあちらにおられる江國氏がどうも渋い顔をされているような気がしてならず、止めることにした。

いつものバナーも今回ははずしておこう。

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