Friedrich Nietzsche |
☆今回137節の読みどころ☆
「総合的感覚」とは何か。ニーチェ箴言の先見性をデリダ・ハイデガー・木村敏・アガンベンを迂回して説く。教育への著者の怒りまたまた爆発!
◆アーカイブはカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒
原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。
)))137節(((
Im Verkehre mit Gelehrten und künstlern verrechnet man sich leicht in umgekehrter Richtung: man findet hinter einem merkwürdigen Gelehrten nicht selten einen mittelmässigen Menschen, und hinter einem mittelmässigen Künstler sogar oft - einen sehr merkwürdigen Menschen.
学者や芸術家たちとの交際において、誤って逆の方向に見込み違いをすることがよくある。注目すべき学者の背後に凡庸な人間を見いだすことが稀でないし、また凡庸な芸術家の背後にしばしば――極めて注目すべき人間を見いだすことさえもある。
++++++++++
ニーチェに関わった学者や芸術家については、多くの教養書や専門書などにおいて紹介されていますので、この箴言散策集では「学者」や「芸術家」に限定することなく読んでみたいと思います。
「誤って」と翻訳されていますところが、第一文全体に強く影響しているような感じを受けますが、原文にはそれに相当する副詞句がありませんので、翻訳者のご配慮だと思われます。「見込み違いをする」に相当する動詞が、ドイツ語では再帰構文を要求する点をご配慮されたのかもしれません。それはともかく。。。
「見込み」とは、当人に関する名声や評判など、先入見や予見に近いものでしょう。経歴や業績などを事前に参照しあらかじめ描いた肖像的なもの、あるいは人格性のようなものに対する表象や認識なども該当するかもしれません。その意味から「見込み違い」の根拠には、次節(138節)の内容も少なからず関与しているようにも思われます。
ただわたしとしましては、他者の「背後」に「見いだすこと」を可能にしたニーチェ自身の、いわば未知数<X>、のようなもののほうにこそ興味がひかれましたが、親愛なる愛読者の皆様方はいかがでしょう。
この<X>とは、いったい何でしょうか?
敬愛する精神病理学者木村敏博士は、形式論理学の始祖アリストテレスが使った「共通感覚」が、いわゆるコモン・センス(常識)とは違いむしろ「感覚生理学的」なものである、と断りながら同時に次のようにも敷衍(ふえん)されています。
意味をその知的な再構成に先立って直接に、あるいは直感的に捉える役割を果たしているのが共通感覚なのである。(『心の病理を考える』岩波新書 初版1994年 下線An)
「知的な再構成」とは、まさに「ノエシス(意識作用)-ノエマ(意識作用により構成される表象としての対象)」(注)の多様な刻一刻の循環構造のゾーン内において言語を介し存在内外に癒着する世界を分節する、いわば認識行為全般を指していると考えてよいでしょう。
(注)「ノエシス-ノエマ」構造の原理的展開に関する第一の基本文献は、エドムント・フッサール(1859-1938)『デカルト的省察』であろう。ただ哲学史上におけるその革命的な意義と同時に、思惟の幾何的な(形而上学的な)運動から完全には脱け出られなかったフッサールの苦悩も混在している。その点については、当ブログ内記事「体験の・・・機序(1)」の後半部において若干触れている。関心のある方はさらに参照されたい。
上述しました「共通感覚」が今説明を付しました認識行為に「先だって」いる、という木村博士のご指摘にはたいへん重要な問題が含まれています。
アリストテレス自身は、五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)のなかでも「視覚」を最優先することで、『形而上学』(岩波文庫版 上巻参照)を展開し始めました。それに対して木村敏博士は、それら個別的な感覚の共通の基礎となる「総合的感覚」とでも呼ぶべきものが現実的な「場=自己と自己、自己と他者、自己と世界とのあいだ」においては働いているという理解を、精神病理学者としてだけでなく長きにわたる現象学的臨床医療実践を通しても示されています(注)。
(注)上掲書以外訳書・著書・論文多数あり。なお氏の言説の一部は、イタリア現代思想の旗手ジョルジョ・アガンベン(1942-)の著書などにも大きく引用されており、国内より国外での評価が圧倒的に高い。1981年第3回シーボルト賞、1985年エグネール賞。2003年第15回和辻哲郎文化賞受賞。
そこで上掲の箴言に戻り未知数<X>を考えてみますと、ニーチェの立場からは、「見えた」のではなく「感じられた」か、あるいは「見込み(事前認識)」との不一致をその場の認識で捉える寸前において(注)、ニーチェの「共通感覚(総合的感覚)」の超越の働きを通して、他者(対手)に秘められていた「存在(性)」がすでに射抜かれていたのではないか。そんなふうにわたしには感じられます。
(注)ジャック・デリダ(1930-2004)の「差延」、ハイデガー(1889-1976)の「存在論的差異」などなど。
わたしたち現代人は、すべての人がそうだとは申しませんが、多弁の傾向にあってしかもじつに饒舌(じょうぜつ)です。
しかしその一方において、語ろうとしても語りえぬ、そんな自らの存在の不統合に狼狽苦渋し、存在の地軸そのものの傾きにも戸惑いや苦悩を深めながら、眠れぬ夜をひとりむかえている人々も、WHOの統計を参照しなくても増えているのが分かります。
おそらく現代社会は、たとえどのように定義され評価されようと、自我分裂の複雑な臨界点ぎりぎりあたりで辛うじて平静を保っている、そんな素振りの優先される社会なのではないでしょうか。しかもその質量あるいは変化の速度に、万人を倣い従わせることなど不可能であることを知りながら。
国内だけでなく国外においても、弱者救済には財政や宗教的配慮はもちろん、何よりも深くて透徹した「人間哲学」というものが先行していなければならなかったことは、まさにホロコースト、アウシュビッツはじめ人類の残酷極まりなき歴史の堆積が教えてくれています。人間の耳目に正しく届いてこなかっただけです。
教育はあくまでも「中立」(注)で「宗教教育」など不可能である、と言うなら、せめて「人間科学」あるいは「人間存在科」といった教科を小学校、中学校、高等学校に設置すればいかがでしょうか。成長著しい子どもたちだからこそあえて、「理性」と「情動」との不和・不一致・ズレを一人ひとりがそれぞれの言葉で常時語れる人間の「秘密の場」というものを、ここかしこに積極的に組み込んであげてはいかがでしょうか。それぞれの地域社会の構造・システムもそのように根っこから変わってしまえばいいな、とわたしなんぞは過激に思ったりすることもあります。
(注)GHQマッカーサーのこれが最大の戦略であった。そして日本人はそのように彼の欲求を昇華させることに従った。そして今がある。
学力(成績)が下がる???
ハッキリ申し上げましょう。
そんなもの、
先進国に生まれ落ちたことを神に感謝しない人間の
贅沢で愚かな悩みにすぎません!
(2008年06月11日 記)
0 件のコメント:
コメントを投稿