その道では知らない人のおそらくはいないであろう信田さよ子氏であるが、イマサラドウダッテイイヤとうっちゃったはずの氏のわずかな言説が、どうかした拍子に脳裏に蘇ってくる。
『現代思想』今年度版1月号に掲載されていた「自助グループロマン主義」がそれである。『依存症をめぐる臨床』という主題のもとに企画された分割連載のうちの第六回目にあたる小論、正確に言えばそういうことになる。
次の箇所である。
アルコールを「飲む・飲まない」に対してひとしく無力であるという主張は、相対的に医師以外の職種の役割を強め、自助グループの役割を最重要視するというヒエラルキーの逆転を主張することになる。しかし、それは一種の煙幕の役割を果たしたのである。(改段)ヒエラルキーの逆転に身を任せた身振りをすることで、もっとも価値を高めるのはほかならぬ医師であることに、当時の私は気づいていなかった。そして素朴な感動が医師の力に圧倒される現実に取って代わられるのにそれほど時間は要しなかった。無力という言葉が、一種のレトリックに過ぎなかったことに早晩気づかされることになる。わたしが受けた印象を、あえて現象学的に申し上げれば、
何かを執拗に依頼されているような感じ、何かへの承諾をそれとなく催促されているような感じ、あるいはまるで闇の取引の場にでも立ち会わされているかのような不穏な感じ、ということになろうか。。。読むほどに息苦しくも感じる。
どの部分が。。。と問われても即答しにくい。
どうやら、信田さよ子氏ご自身が対象に下された「(三者)無力レトリック論」とでも呼称すべき判断のカラクリは、わたしの奥底から立ち上がるこれら「気分」の再翻訳の成否如何にかかっているのかな、と思う以外なかった。
。。。そうこうしているうちに、心療内科で知り合ったお方との月一回の約束の日がやってきた。
お互い心身の具合をいたわりながらの二時間程度のブレイクタイム。話しをリードするのは、先輩格に当たるそのお方。京都大学受験失敗後、迷わず社会に出られ経理畑を渡り歩いてこられた。天下一品の仕事人であり、たいへんな苦労人でもある。それだけに、この世この世界の事情に明るく、そのお話しは微に入り細をも穿つ。
そのお方が、おもむろにこんな話をされた。
「○○さん、抗酒剤じゃなくてお酒を適量飲んだ時点で飲酒欲求が止まるっていう夢の薬、ぼつぼつ日本上陸らしいですねェ。背後に莫大な金が動いていますよ。」この手の話はじつはかなり以前からあって、まるで都市伝説のように、アルコール依存症者に過剰な期待を抱かせては落胆させてきた前歴がある。
完全断酒歴も十五年を越えたわたしからすれば、それほど聞くに新しい情報ではなかった。そこでわたしはコーヒーカップに左手を差し伸べた。その瞬間である。
「ぅわあっ!」周囲のお客様も驚くほど大きな声が、わたしの口から出てしまったのである。
「どうかされましたか???」それほどの奇声であった。
しかし、信田さよ子氏の底意を捉えたこれがわたしの瞬間でもあったのだ。大仰に表現すれば、「星座的布置」が整った瞬間であった。
つまりはこういうことである。
上掲引用部の信田さよ子氏の理屈を記号論的に示せば次のようになる。
{無力→ヒエラルキーの逆転(自助グループの正義・真理・権威>アルコール専門医(療)の価値・権力) BUT ヒエラルキーの逆転=煙幕=レトリック⊃アルコール専門医(療)の対患者・対医療行政法制度等に対する価値・権力の強化} / 信田さよ子氏(当時の私は気づいていなかった)
*→は原因から結果、>は強化の度合い(左は強化される項目、右はその反対)、=は同義関係、⊃は含意、をそれぞれ示す。なお{ }内部は、「無力」という「信」によってはじめて作動する循環領域である。 / は、その右辺の項目が左辺(循環領域)の外部に位置すること(主体の非関与)を示す。世俗的に申し上げると、アルコール依存症者(近年はさらに細分化)を「(三者)無力」という旗印のもとに訓育し、プライドをくすぐり、そしてあたうかぎり悲劇のまたは復活の主人公であるがごとくに待遇・集摂することで、結果的に堅固で安定した医療(診療)報酬のただなかにアルコール医療はみずからを位置づけることに成功した、ということになる。この観点からすれば、アルコール依存症者に対する過剰な抗精神薬の使用や不要な点滴なども、ただの副産物程度の扱いになる。
しかもアルコール依存症の国家的認知のもとで編まれ幾度も幾度も反復されてきたこの「大きな物語」を根底において真たらしめてきたのは、「無力」という「信」なのである。
今回の「新薬」の問題がこれまでと異なる点は、この「信」が「信」でなくなる時がまさにそこまでやって来ている、という「切迫」に尽きる。信田さよ子氏は、そのことを熟知しておられるのだ。換言すれば、その時の患者たちの「精神的騒乱・暴動」というものをじゅうぶんに予感しておられるのだ。だからこそ「私もあなたたちと同じ『無力』の立派な被害者なのです」と言わんばかりに、このようなアリバイ工作に先手を打たれたのではなかろうか。
上述した「新薬」の開発・認可・使用が、こういった専門家の逆回心・転向にますますの拍車をかけるであろうことはもはや疑いえない。今後の成り行きを、アルコール依存症者のひとりとして注目したい。そしてぜひ一般方々にも注目していただきたいと思う。おそらく「予想だにすることができなかった」と回顧するであろうほどの医療行政問題・福祉行政問題したがって政治問題が現象するであろう。そうなれば、自助グループ並びに関連法人組織の動揺・混乱・瓦解も必至となろう。
AAに出自を置く聖なる「無力」という言葉を使用しながら、そのキリスト教的覚知に囲われることのついになかったこの国の当事者・家族・医師・民間ケースワーカー・行政担当者たちの精神風土には、絶望的なものを感じる。
わたしは十年ひと昔も前に、とある断酒会のおおやけの体験談のなかで次のように自虐的な意味をも込めて問いかけてみたことがある。
「そこまで皆様方が酒のために妻が、子供が、家庭が、家族が、地位が、職業が、財産が、そして人生そのものが。。。と言われるなら、どうして公害訴訟のようにして日本国家相手に敢然と闘おうとしないんですか?酒を飲んだあとにわたしたちは誕生したのですか?酒を飲むまえにすでに存在していたのではないのですか?」
当然この体験談は、その前後を含め当時のほとんどの仲間にも家族にも医療関係者にも無視された。
その後わたしは断酒会を離れ、しかし今日まで断酒を継続してきている。わたしが会員であった頃、たしか全国一万二千人の会員がおられたと記憶しているが、最新情報では八千五百人程度にまで減少しているらしい。依存症者の数は増えているはずなのにである。理由の一つは簡単。アルコールをはじめ依存症専門のクリニックが、全国に満開だからである。悪く表現すれば、自助グループに依存症者を集めさせておいて、そこから患者をじわっじわっと引っこ抜いてきたその結果である。
今度は医療従事者、関連学者・研究者・介助者たちの番である。彼らは「無力レトリック論」にどう対抗するであろうか。否、同調者・逃亡者が続出する可能性だってある。
妄想と言われても仕方がない以上のような話を、わたしの先輩は最後まで静かに聞いておられた。。。
(この記事は、特定の個人を批判する意図のもとに書かれたものではまったくない。多少の失礼はド素人の書いた雑文とでも黙過していただき、過ぎた無礼については寛大なご容赦を心から願いたい。)
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