誰しもがとおる道そしてくぐる門、とは聞いておりましたが、いざこうしてその「道」を足裏に実感しはじめ、霧の中にそびえる偉大なる我がまたひとつの「門」を見上げていますと、それはもうなんとも表現のしようのない情緒に襲われ、この老いの目は、ひとり助かりたいがため、狼狽から不覚な涙の所作までを恥ずかしげもなくみごとに演じてしまいます。さりげなくそっと過ぎ来し方を振り返り、「なにをいまさら。。。」、と呟いてもみるのですが、どれもこれもしらじらしい。
そこでこの四月、少しのびてきた髪の毛にパーマをあて、全面オレンジ色のマニキュアで仕上げてもらいましたところ、その色合いがいっこうに剥げ落ちない。そうこうしているうちに四十度近くの極暑をだらしなく生き延びてしまい、秋・秋・秋。。。コリャアたいへんじゃ、ということで、ブリーチで脱色してもらったがなぜかしら不完全。このままだと「まだらな金髪」。長さも肩にかかるくらいまでになっていましたので、ここはアッシュ系のブラウンで染めることに決定。もちろん美容院でのはなしではあります。まだらな脱色のまま染め上げたので、遠くから見るとブラウン色には見えるが、近づくにつれ一部パープル色一部キャラメル色。。。そこにアッシュが霞のようにかかっている不思議な感じに仕上がった。前髪に一ヶ所ゴールド色のメッシュを入れてもらった。光線があたると意外にきれい。サイド・バックとも裾側にパーマが残っているのでルーズなセットができてまずは納得。
ファッションも大幅変更。
いわゆるグレー系の「ズボン」が中心であったが、チノパンツからデニムジーンズの範囲におさまるようにした。
ジーンズはいろいろと検討した結果、ウォシュブルーの「アルマーニ(GA)」にした。右うしろポケットに打ち込まれたゴールドメタルのブランドマークが決め手。ヤコブコーエン、ディーゼルなどのジーンズもよさそう。
時計はこの十年近くGショック系なので、モデルチェンジだけ。今回はこの夏の新作MTG1500にした。ずっしりと重い。ソーラー電池の充電表示が気に入っている。
ついでに、クロスネックレスとクロス系指輪三つを買った。これは昔からの趣味。ただし今回は銀製品(笑)。貴金属としての資産価値より、ファッションとしての使用価値を重視する方々には銀細工(銀製品)をおすすめする。マルクスの言った価値の二重性とは、簡単に言いますとこのことです。
靴はスニーカー。見るからに秋冬、といった感じのアメリカ産を比較的安価で入手した。靴下はネオンカラー。赤・黄緑・その他ライト系が中心。
眉毛が気になっていたのでアート系のタトゥーを、と考えたが、こちらは現在も思案中。実行するときは、右手甲か左胸にも、蝶々か花かクロスをさりげない程度に刺青としてみたい。反対する人もいるそうだが、一回きりの人生だ。人は人、自分は自分。
ほとんど利用しなかったが、香水を少々。誰と会う、どこへ行く、というのではないのだが、なんとなく気分転換に。とりあえずブルガリの「白」を。すこし甘ったるい感じがするが。次はシャネルココかシャネルエゴイステ(ト)にしよう、と意識して未来志向に。
トップやアウターは、どうしても海外ブランドに目がいく。しかし高い!ウン十万円なんぞざら。こちらはいまあるもので、ということで折り合いをつけているが。。。宝くじにでも当たれば、100万円くらいのキルティングのハーフコートを一着はとりあえず(ガハッ!)、とこちらもダメ押しで未来志向。
さてそんなこんなで老いとやまいへの囚われを、アノニマスらしく少々やんちゃに解放してみた。
からだのふるえやこわばりもそうだが、特に読書意欲や集中力の減退がひどく、十五分程度の読書にも困難を感じるほどになっていたところ、減退に応じた読みをすればいいジャン、読めなくても息してるジャン、という風にレベルをそのつど無限に落としていけば耐え抜けることに気がついた。半年近くもかかったが。。。
そのせいか、最近はイタリアの現代思想を代表するジョルジュ・アガンベンの著作を数冊読むことができた。ついでに大貫隆『イエスという経験』『イエスの時』の二冊も。どちら方の聖書解釈も時間論が核でアノニマスにはうってつけ。ただし大貫氏のハイデガー理解は浅く、そもそも時間論自体への基礎的展開がなくて、著作としてのオリジナリティは感じられなかった。アガンベンが依拠したベンヤミンのコピーに近いか。
直近の読書は、遅まきながら、二十世紀最大のユダヤ人哲学者フランツ・ローゼンツヴァイク『救済の星』。なんと翻訳本で約700ページを読破。今のアノニマスには、奇跡的な読書量だあああああ!
そこにこんな一節が。
悲しむ者の涙は、彼の顔からもだれの顔からも拭いさられる。涙は、万物の大いなる更新のときまで、彼の眼のなかでかすかに輝きつづけるだろう。そのときまでは、慰めがないということが彼にとっての慰めである。そのときまでは、魂は受難を保ちつづけることでみずからを元気づける。そのときまでは、魂にとって更新は受難の保存においてなされる。そのときまでは、魂はみずからの古き日々の思い出から新しい力を拾い集めてくる。過去の幸福ではなく、過去の苦悩だけが、あらゆる現在における魂の至福なのである。(フランツ・ローゼンツヴァイク『救済の星(DER STERN DER ERLÖSUNG)』第三巻第二章 村岡晋一その他訳 下線アノニマス)実際、この春夏をアノニマスはこのように生きる以外なかったのだ。
そしてこの秋、それでも生きていることに少しの自信と確信をもった。したがってこの冬には疑いなく、さらなる希望や喜びに満たされて生きるであろう。
この、疑う余地のなさ、これがキリスト教本来の神の「愛」の受容様態ではないか。『旧約聖書』をまともに読めば、ユダヤ教本来の「愛」が時空間を無化する力の代名詞であることが分かってくる。時空間の無性的引力、と呼称してもよいかもしれない。そんなもの、本気で受容すれば死んでしまう。しかし実際は死なない。。。そこに信仰の深い意味がある。キリスト教の「愛」の「愛」たる所以がある。笑えそうで笑えないところがある。。。信仰とはそういうものなのであろう。