牧師説教を先導しているのは、聖書ではなく使徒信条である。
「ソレデハ何ヲ語ッテモダメナノダ。」、と言うつもりは更々ない。
そうではなく。。。
使徒信条に対する牧師の悟性の、無自覚的なるがゆえに圧倒的なその起動が、聖書をまさにオルガノン(Organon:認識の道具)にまで格下げしていることに、どうもご自身気づいておられないのではないか。。。と憂慮しているだけである。
これでは、正解番号を事前にカンニングして、さもありなむ、とでも言わんばかりに、くだらぬ解説講義をダラダラと展開する予備校二線級いかさま講師と変わりない。
なぜ一線級と呼ばれるほどの予備校講師が、この世に存在するのか?
彼らは、劣等生で在りつづけることに耐え抜き、そしてニーチェのようにも激しいコンプレックスと憤怒を、ひとり抱きつづけたからである。
公務員教師が予備校で通用しない根底には、そういう事情もある。
正解をカンニングしない彼らのテキストクリティークへの執着は、尋常ではない。
牧師先生方、またその背後に潜んでおられる各派の学者様方にも、一言申し述べさせていただきたい。
使徒信条いっさいを保留にして、聖書、とりわけマタイ・マルコ福音書のイエス「の」信仰を語っていただきたい。
教会の外にいるわたしには。。。できます。
なぜでしょう?