氏の洞察にみちみちた思索の全過程を省略させていただき、まことに失礼ながら、その結論だけを拝借すると。。。
過去はどこにもない、ということになる。
時間論の系譜で言及されたハイデガー批判に若干の違和を感じはしたが、氏の結論(洞察)に関しては、なるほどなあ、と感じ入った。
心療内科で知り合った団塊世代のキリスト教信仰者兄と、つい先だってお茶?する機会があった。わたしのようにへそ曲がりな人間に、もう二年も付き合ってくださっている。ありがたい。
この世界の金融情勢を語り合っていたのが、いつのまにか、天の国はあるやなしや、という話になってしまった。
後輩であるわたしが「ない」と言うと、先輩は「ある」と応えられた。
信仰者としては、当然の応答である。
だがこの先輩の魅力は、その直後の一言の敷衍(ふえん)にある。
「ただし、最後の審判はないと思うがなあ。。。」
先輩はおそらく、「最後の審判はある」、と考えられておられたのだ。
教会を離れたわたしへの精一杯の譲歩、とわたしは理解した。
これまで何歩、譲歩していただいただろうか。。。
そこでわたしは、イエスの口癖のひとつを指摘した。
- 「聞く耳のある者は聞きなさい。」
YLTバージョンではこう逐語訳されている。
- `He who is having ears to hear -- let him hear.'
ただし、この極端なわたしの意訳には伏線がある。以前にも少し言及した当ブログの標題がそれである。
- 生あるうちに神を見る者があなたがたのなかに必ずいる、今わたしがそうであるように。。。
わたしは、翻訳の是非を問うているのではない。イエスの時間意識の原質を捉えようとしているだけである。
イエス「の」信仰がキリスト教になって以降、イエスの時間意識は形而上学の洗礼を受け水平化され、ほどなく過去→現在→未来のように直線化されて、ついにはただ一回きりのものとなった。
テキストクリティークをないがしろにせず「福音書」を読んでこられた方なら、このマジックのような「神学」の悪戯に気がついておられるであろう。
その理由は簡単である。
時間の循環を前提にすると、十字架に関するキリスト教教理教義のすべてが、たちどころに崩壊してしまうからである。
このマジックの種明しが、イエスの時間意識である。
復活問答(マコ12・マタ22・ルカ20)は、彼の時間意識が「(聖なる)今」に凝結していることの証しである。その他多くの箇所に、イエスの時間意識の原質は見え隠れしている。
「(聖なる)今」とは、「どこにもない過去」にならない「今」のことである。
イエスは、このような時間意識をどのようにして獲得したのであろうか。
。。。とまあ、およそそのような議論をして、その日はおひらきとなった。
先輩、ほんとうにお疲れ様でした。
わたしの兄弟イエスの名を通し、我が主、我が神、我が万軍の主に十月の命を感謝いたします。
アーメン。