時を折り、まるで外国語を直訳したかのようなぎこちなさでそう尋ねるドクター。少年の頃からなにかと病気がちなわたしが望んできたのは、そのような医師であった。
診察室に入るや、
「どうかね、われわれの関係は?」
と問われれば、患者であるわたしはきっと天を仰ぎ、OH MY SOUL!コノ医師ニ幸多カランコトヲ!と叫ぶであろう。いや、もしかして突然に泣きじゃくるかもしれない。
治る見込みが少なければ少ないほど、いや見込みなど全くないとわかればなおさらに、この「問いかけ」に束ねられた患者へのメッセージは強化されるはずだ。その内容は次のようなものになろうか。。。
あなたは病に襲撃された哀れで不幸な被害者などでは毛頭なく、慈悲の欠片もないその襲撃に寸断され続ける刻一刻を、まさに身も心も尽くして繋ぎとめんとする紛(まが)うことなき「ヒーロー/ヒロイン」なのだよ。みずからを振り返らせ、またその生を奮い立たせるにじゅうぶんな「問いかけ」である。
「病という名の劇場」の舞台に立つ「ヒーロー/ヒロイン」たる患者の「脇役」に身をやつすことのできる、そんな医師の口から発せられるえもいわれぬ「問いかけ」。。。検査や処方箋よりもまずは患者と同じ舞台に上がることを決断する、そんな医師の臨界で見極められ選択された良心そして崇高な愛。
わたしはただの「夢」を夢見ているのであろうか。。。
それにしてもなんと心強い脇役であろう!
そこには、悲劇を喜劇にせんとする滾(たぎ)るが如き情動がある。はかなくもせつなき不思議な希望がある。幼稚で不器用な、しかしワクワクもする戦略会議がある。子供のまんま大人になった二人だけの秘密がいっぱいだ。しかも、おそらくは患者のほうが先にこの地を離れるであろうことを、この世界の誰よりも深く深く互いに知り合っている。納得し合っている。そうしてお互い笑顔を交換してそれぞれの部屋に帰っていくのだ。。。
ところで、
昨日は神経内科への通院日であった。ここからは現実の話である。
わたしが診断を受けたパーキンソン病は、難病指定されている「進行性」の病で、脳神経伝達物質の枯渇が振戦(SHINSEN:小刻みなふるえから痙攣状のふるえまで)や歩行障害や認知障害といった症状となり現れてくるものである。脳神経伝達物質を薬物で補給する「対症療法」が、現段階では主流となっている。治癒する可能性はゼロなので、「治療」とは呼ばない。そのため、当初は通院のむなしさに誰もが激しく襲われる。わたしも例外ではなかった。
しかしパーキンソン病者のより深い苦悩は、この「進行性」と「対症療法」というふたつのキーワードの組み合わせが有無を言わさずに強いる薬物の「増量」にあるのだ。薬の効き目が悪くなると増やす、そしてまた増やす。普通の薬ではない。精神障害に関わる副作用が過激に明記された言わば劇薬ばかりである。それを増やす、増やす、ただただ増やす。患者としては「ハイそうですか、わかりました」とは、次第に即応できなくなってくるのだ。
このあたりから「進行を遅延させる効果」と「副作用」とを秤にかけざるをえない状況に追い込まれるわけだが、同時に主治医との駆け引きが頻繁になったり、齟齬が目立って大きくなるのもこの時期に相当する。患者の愁訴がどう表現してみても伝わらないつらいつらい時期である。
最近は、どれがパーキンソン病の症状でどれが薬剤の副作用であるのか、正直分からなくなってきている。そのもどかしさを伝える言葉すら、もうわたしの中にはほとんど残っていない。
豪華にしつらえられた診察室の雰囲気は、いつも気だるくてどんよりしている。慣れ親しみ過ぎたせいか、誰の顔を見回しても覇気も希望も愛も得られない。確実に到来するわたしの症状の顕著な進行だけを、主治医や看護師たちはじっと待ちぶせしておられる、そんな不気味な感じさえする。素晴らしいスタッフたちに囲まれて、わたしはとてもむなしいのだ。いつも突然に流れ落ちてくる涙を、この新年の帰路においてはこらえることができた。世間ずれする余地がまだわたしに残されていたのだろうか。。。
さて、実はここからが本題なのである。ご辛抱いただきたい。
「福音書」をよくお読みになっておられる方々なら、わたしがこれからどの箇所を引用するのかすでに察知しておられることであろうと思う。
マルコ(2. 1-12)・マタイ(9. 1-8)・ルカ(5. 17-26)「福音書」がそうである。
ただ一言申し上げておきたいことがある。
いずれの「福音書」も、イエスなきあと一気に枝分かれてしまった夥しい数の教団あるいは分派のうちのいずれかに属する「教書」の一種あるいは一部であった。このことを真顔で否定する時代に、もはやわたしたちは生きてはいない。議論としてのはかない余韻はいまだ残ってはいるとしても、である。しかも大量の写本群は不特定多数の関与者の存在を証ししており、長きにわたるそれら写本間の校訂作業を通じ得られた「仕方なしの校閲本」の、さらには幾度にもわたって改訂されてきた翻訳本からの模糊としたスタートを、誰しもが強いられる。およそ古典とは、そのようなものだ。『古事記』や『源氏物語』とて同じこと。したがって、キリスト教教義(ドグマ=使徒信条)の擁護を専らとする作為的で目的因的で予定調和的であるばかりか、時代の要請によってはいとも簡単に変貌もしてきた教会型の「閉じた振りをする解釈」とは、何らの関わりもない。
しかし、
上掲「福音書」に記録された'Paralyzed man or The paralytic'(麻痺症者)とは、実際にはどのような状態にある人のことを指していたのであろうか。
Wikipediaに迂回してみよう。
Paralysis is loss of muscle function for one or more muscles. Paralysis can be accompanied by a loss of feeling (sensory loss) in the affected area if there is sensory damage as well as motor. The word comes from the Greek παράλυσις, "disabling of the nerves",itself from παρά (para), "beside, by + "λύσις (lysis), "loosing"and that from λύω (luō), "to loose".
「パラリュシス」とは、一ヶ所あるいはそれ以上の筋肉を動かす際に見られる筋機能障害である。モーターが損傷するほどの感覚障害がある場合には、その支配下にある知覚の喪失、すなわち知覚障害を伴う可能性がある。そもそも「パラリュシス」という語は、「神経の麻痺状態」、という意味を表すギリシア語 'παράλυσις' に由来している。語源的には、「…のそばに、…のかたわらに」を意味する 'παρά (para)' と、「喪(うしな)う」という動詞 'λύω (luō)' から派生した 'λύσις (lysis)'(喪失) が結合したものである。(An訳)興味深い記述である。
前半部は、身体医学的な見解と思われるが、後半部はそうではない。よくある語源解釈にすぎないのではないか、と言われてしまえばそれまでである。
ただ、ギリシア語を母語とする、あるいは母語に近い状態で用いていた人々が、それでも 'παρά (para)+λύσις (lysis)' というふうに結合させずには示しえなかった出来事が「あった」ことを思うとき、「コレハタダノ語源解釈デハナイカモ・・・」、といった予測のようなものがわたしのなかから立ち上がってくる。
'Paralysis' とは、「喪失することのそば(かたわら)に居合わせている状態」に、時を同じくして連なることが到底できない、その非力を覆わんがため、結合的に分節された言葉ではなかったろうか。
以下では、現-イエスの信仰を復元する可能性の最も高いマルコ「福音書」を基準にして、あえて該当する物語から会話だけを抽出し、ギリシア語底本に全く忠実なロバート・ヤング(1822-1888)の逐語訳とのささやかな対照を介してはじめてハイライトされるイエスのメッセージを、散文的にでも復元してみたいと思う。
粗雑ではあるが、以下がその対照表である。(←はイエスから当事者への会話 ↑はその場にいた民衆あるいは論敵とイエスとの間の会話)
- ●マルコ「福音書」2. 1-12
「新共同訳」 "Young Literal Translation" ←「子よ、あなたの罪は赦される」 '`Child, thy sins have been forgiven thee.' ↑「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 'Why doth this one thus speak evil words? who is able to forgive sins except one -- God?' ↑「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」 'Why these things reason ye in your hearts? which is easier, to say to the paralytic, The sins have been forgiven to thee? or to say, Rise, and take up thy couch, and walk?' 'And, that ye may know that the Son of Man hath authority on the earth to forgive sins.' ←「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 'I say to thee, Rise, and take up thy couch, and go away to thy house;' ↑「このようなことは、今まで見たことがない」 'Never thus did we see.'
それは、ギリシア語底本に見られるアスペクト要素(テンスとは異なり、動作の継起様態を示す文法要素)の処理に見受けられる顕著な不統一である。「新共同訳」が「共同訳」であるがゆえの結果であろうが、この不統一は、わたしたち多くの無名の信徒に、訳本間参照のたいへんな煩雑と難儀を強いている。
上表、「子よ、あなたの罪は赦される」、というイエスの言葉として記録されている箇所(下線部)もそのひとつである。マタイ「福音書」でも、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される(9. 2)」('Be of good courage, child, thy sins have been forgiven thee.';from YLT)と翻訳されている。
ルカ「福音書」ではどうか。。。「人よ、あなたの罪は赦された(5. 20)」(`Man, thy sins have been forgiven thee.';ibid.)と訳されている。
しかしロバート・ヤングは、三「福音書」の該当箇所すべてを '...have been forgiven...' という完了相において逐語訳している。
ロバート・ヤングを疑うわけではないが、そもそものギリシア語底本ではどうなのか。
言わずもがな、三「福音書」ともすべて 'aphiêmi (赦す)' の「完了(相)」 'apheÔntai' となっている(BLB参照)。
あえて文語的に申し上げ、三人称的観点に立てば「赦されつ」、一人称的観点からは「赦されり」、なのである。
問題は、「赦される」あるいは「赦された」、という翻訳自体の技術にあるのではなく、そのような訳を呼び寄せた翻訳者たちが、なにがしかの「キリスト論」にすでに誘導されてしまっていたのではないか、という点にある。アプリオリに起動したのであろう思惟の経路のどこかにおいて、イエスの信仰それ自体への根源的な了解をまさに取り逃がし、しかもその瞬間にまったく気づくことが出来なかった、その密室で起きた出来事の結果ではないか、とわたしは感じている。
イエスが「赦した」こと、もしくは、麻痺症者の家族親族と思しき四人の「執り成しの祈り」を説き明かす説教者もおられるようだが、本末転倒もはなはだしい、と言わざるをえない。それらは、「キリスト論」に後押しされた思惟の非力な派生態にすぎない。
この出来事に遭遇したイエスは、'Paralyzed man or The paralytic'(麻痺症者)が、「喪失することのそば(かたわら)に居合わせている状態(παρά (para)+λύσις (lysis))」にありながらも、なお生を主張して止まない「存在」の尾根に横たわらしめたりえている創造の戦慄すべき力(働き)のアクチュアリティを、見透しているのである。
なぜそのようなことが可能であったのか。。。
それは、イエスみずからが若くしかも壮健でありながらにして、「喪失することのそば(かたわら)に居合わせている状態」をすでに体験してしまっているからである。どこでどのようにかは、一部他の記事ですでに触れているが、また稿を改めて触れる機会があろうと思う。
ロバート・ヤングの逐語訳(`Child, thy sins have been forgiven thee.')をベースにして、取り逃がされたイエスのメッセージを、わたしなりに復元すれば次のようにもなろうか。
わたしとおなじく、喪失のかたわらに居合わせながらもなお生きる創られた子よ。あなたはすでに父の懐深くに抱かれている。むしろその幸いに、強く思いを馳せなさい。生きて横たわりえているそのことこそ、わたしとおなじ子よ、すでに父の憐れみを得ている証しではないか。いかがであろう。
「不自由」のなかに立て籠もり「自由」を垣間見ると、惨めになる。いとも簡単に腹立たしくもなるし、不本意の極みにもたやすく達してしまう。しかし自分だけにそなえられた「残された自由」に、困難ではあるがわが身と心を譲渡してみると、その「不自由」の数々が逆に愛しくもなってくるのである。否その「不自由」が、「残された自由」の意味を際限もなく豊かにし、そして事実そう証ししてもくれるのである。「不自由」が与えられていなければ、わたしはこの「残された自由」の聖なる意味とその成就を、取り逃がしていたであろう。
わたくし如き愚かな人間にしてそうである。まして、'Paralyzed man or The paralytic'(麻痺症者)が、イエスの言葉を耳にし床から起き上がったとして、何の不思議があろうか。
しなやかにたおやかに、そして縋りつくように必死にも、ときには衝動的に、さらには誰にも邪魔されず密やかに、そんなふうに聖書は読みたいものだ。
人間イエスに涙しなお生きるために、人間イエスに倣い堂々と十字架にむかい歩むために、ただそれだけで、わたしはじゅうぶんなのだ。
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