人は誰も皆、誤った星の下に生まれ、それでも毅然とした態度で世の中に対処するということは、自らの星占いを毎日のように修正することを意味しているのである。(ウンベルト・エーコ『フーコの振り子』藤村昌昭訳より)
エーコの描写は、ポー川のように隈なくてしなやかである。
これはわたしのアイロニー。 わたしの衝動がそう書かせているのだ。
日々の修正などもはや叶わぬ魂の転落を体験した者、凍土のごとき寄せ場に群がる嘘つきに生きることを請うた、そんな卑しき者にとって、このエーコの描写は眩(まぶ)しすぎる。
いっそ躁鬱の振幅の最大値を生きたヒュペーリオンの雄叫びにこそ、希望を見出すべきであったのかもしれない。あと少し。。。それが踏ん張れなかったのだから。
わたしのなにもかもが、あまりにも弱すぎたのだ。 そうでないと、わたしなどに神の寄りつくわけがない。
しかしたったこれだけの納得のため、わたしはこの世に放り込まれたのだろうか。 それにしてはあまりにも犠牲者の数が多く、その傷もまた深すぎはしまいか。
オマエハ、オマエニ寄リツイタ神ノEgoノ共犯者デアル。今もってこう囁かんとする夜が、わたしの仄かな油断を待っているのだ。
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