2013/10/14

ニーチェ箴言散策集・私家版 (10)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


105節から109節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))105節(((
Dem freien Geiste, dem  》Frommen der Erkenntniss《 - geht die pia fraus noch mehr wider den Geschmack (wider seine 》Frömmigkeit《) als die impia fraus. Daher sein tiefer Universtand gegen die Kirche, wie er zum Typus 》freier Geist《 gehört, - als seine Unfreiheit.
自由な精神、「認識の信者」にとっては、――≪不敬虔な欺瞞≫よりも≪敬虔な欺瞞≫がより多く趣味に反する(彼の「敬虔」に反する)。従って、彼は「自由な精神」の類型に属するかぎり、教会に対して深い無理解を示す。――これが彼の不自由である。(一部傍点あり)
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メビウスの帯上を歩いているような錯覚を覚えます。

「表」を歩いていたと思いきや、いつの間にやら「裏」を歩いていたというような。。。そこで「裏」が本物なんだと思い直すまもなく、また「表」を歩いてしまっている自分を見い出します。ンモゥー、ニーチェ先生ったらぁ、なんとかならないのでしょうか、その抜群なご表現。。。(苦笑)

。。。と愚痴ばかり述べていましても、埒があきませんので、エイ!ヤア!と挑戦することに。


仮象としての真理に対するニーチェの「認識(論)」批判は、その色合いを変えながら他節でも頻繁に言及されている主題です。わたしなりにもそのつど(脱線話のじつに多い)稚拙な解釈を施してきましたが、その変わらない視座は、「真理」にも「非真理」にも等しいまなざしをむけるニーチェの「自由な精神」にあります。

今回の箴言のむつかしさ(したがっておもしろさ)は、その「自由な精神」が「(「認識の信者」にとって)不自由である」という判断の根拠、つまりハイフンの内部をどう解釈するか、ということになります。

そこで先回りを敢行し、『彼は「自由な精神」の類型に属する(かぎり)』、という箇所に注目してみることにします。

そうしますと、「彼」が『「認識の信者」』を指しニーチェ的な「自由な精神」と一旦分離されてはいるものの、同時にその直後でおなじ「(自由な精神の)類型に属する」ことにも、仮説的(条件的)にではありますが、なっていることが分かります。このニーチェの思索の一瞬の揺らぎが、おそらく読者を困惑させているのだろうと感じます。

抜け道は「類(型)」にあります。

「類」とはなんでしょう?

「類(ギリシア語でgenos ゲノス)」概念を措定した元祖、アリストテレスの『形而上学』第五巻第二十八章(出隆訳)に基づき、わたしなりに約(つづ)めて記述しますと、
おなじ形相(けいそう)をもつ種差の基体=類(ギリシア語でgenos ゲノス)
となります。訳者出隆氏は、この第二十八章の注で、この「類」が、
・・・「生殖」「生成」を意味する語根 'gen-' から出た語で・・・
あることを指摘しておられます。

形相(ギリシア語でeidos エイドス)には「本質」という意味もありますが、ここではむしろ質料(ギリシア語でヒュレー)、すなわちなにがしかの「属性」のようなものが「現実態」となったもの、という意味で捉えた方が、分かりやすくなるでしょう。

適切な例ではありませんが、「水素」がふたつに「酸素」がひとつ、はヒュレー(分子としての質料)ですが、その化合結果の「水」は、エイドス(現実態)です。


つまりニーチェは、この箴言において『「認識の信者」』に「類」の違いを見たのではなく、あくまでも「種差」を見ていた、ということになります。再度喩えてみますと、おなじ「親」から生まれた「兄弟」であることを認めながら、そのうえでニーチェ的な「自由な精神」との「種差」を『「認識の信者」』の立場をニーチェにはめずらしく顧慮しながら、あくまでも親族として批判しようとした、という可能的な解釈をひとつ得ることができます。


さて次は、その批判の内容ですが。。。

箴言の箇所としては、「≪不敬虔な欺瞞≫よりも≪敬虔な欺瞞≫がより多く趣味に反する(彼の「敬虔」に反する)」、が核となりそうです。≪不敬虔な欺瞞≫も≪敬虔な欺瞞≫も難解な語句ですよネ。

ここはおもいっきり卑近に、≪不敬虔な欺瞞≫を「あらわなあざむき」とし、≪敬虔な欺瞞≫を「ベールを被せたあざむき」、とでもしましょうか。「被暴露的」と「隠蔽的」、などでもいいかもしれません。

「真理」は仮象ではなく追跡できるものであると信じている『「認識の信者」』にとっては、真・偽の明確な≪不敬虔な欺瞞≫よりも、真・偽の定まらない≪敬虔な欺瞞≫に焦燥感を抱くのは、(もしわたしの以上の推理が妥当であるとすればの話ですが)、当然なことです。


ここで、前段の「類」概念の説明と重ねていただきますと、「教会」に対してその「欺瞞」を暴く「自由な精神」に比べ、「深い無理解」しか示せない『「認識の信者」』は、その意味では、「認識」の呪縛から脱しきれていない「不自由」を抱えており、それが同時に、「認識(形而上学)」の限界でもあるのだ、兄弟よ、しっかりせい!ということではなかったでしょうか。

ややっこしいですネ。

(2008年06月29日 記)

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)))106節(((
Vermöge der Musik geniessen sich die Leidenschaften selbst. 
音楽の力によって激情そのものは自らを享楽する。
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カシャカシャカシャカシャ♪カシャカシャカシャカシャ♪。。。I-PODや携帯音楽サイトで箴言(しんげん)のような状態になってしまいますと、事故が頻発して困ります。どうぞ、プラットホーム、車中、歩道では控えめにオ・ネ・ガ・イ・シ・マ・ス・ネ。

ニーチェの音楽への心酔。

特に作曲家ワーグナーとの当初の親密な交流は有名ですが、結果としては、決別することになりました。藤田健治氏は、ワーグナーの曲に触れたとき(1868年頃)のニーチェの感想を、引用の形で紹介されています。
私のすべての腱も神経もふるえ、特にマイステルジンガーのそれでは恍惚とした感情に長くひたった(『ニーチェ その思想の実存と解明』 中公新書 初版1970年)
主・客未分の坩堝(るつぼ)、つまりは「忘我」や「没我」のような状態にあった、というのでしょう。

「恍惚とした感情」は、ニーチェ特有のものというより、音楽に親しんでおられる方ならきっと何度か経験されている状態だろうと想像します。演奏家であっても、鑑賞者の立場にあっても、事態は同じです。

ニーチェの場合は、「私のすべての腱も神経もふるえ」、というふに、いわば「アウラ(前兆)体験」のようなものもすこし表現されていますが、鑑賞中に突然、涙を流す人もいます。わたしなどもそうですが、ただ自然に涙が出るというより、胸が締めつけられるような「アウラ」の直後によく涙があふれ出ます。


わたしは、大病で入院していました十五歳の頃から、闘病生活の慰めにクラシックギターを始めました。まる三年にわたる入院でしたが、入院中に残りの義務課程をなんとか形式的ではありましたが終えさせて頂き、退院後一年間さらに自宅療養したのち、二年遅れで高校に進学しています。

そこで、チェロを演奏していた友人との出会いがありました。それがきっかけとなって、夢のような話ですが、上野音楽大学のギター科を目指し、勉強・通学はそこそこにして、ギター練習に没頭する日々が続くようになりました。

ちょうどその頃、愛読していました『現代ギター』という雑誌に、ギター用に改編されたバッハの「フーガイ短調」の全曲が、楽譜として掲載されていたことがありました。

わたしは当時、バディ・リッチはもちろんエルビン・ジョーンズなどに憧れて、ジャズドラムの専門学校にも通っておりまして、そこでの講座のひとつに「音楽通論」がありました関係上、ある程度の楽譜でしたら、じゅうぶん読みとることができるようになっていました。

当時のわたしのギター技術のレベルは、モーツアルトの「魔笛の主題による変奏曲」の全曲を、通常の速度をいくらか落とした状態で、弾ける程度のものでした。

わたしが目指していました上野音楽大学の受験科目のなかの「実技」は、課題として与えられる「練習曲」と、自分で選択して演奏する「自由曲」とに分かれていましたので、その「自由曲」に、予定していたモーツアルトを捨てバッハを選択することにしました。


まあ、それからがたいへん。。。

ご存知の方も多いかとは思いますが、バッハの「対位法」という作曲の手法は、ほぼ同じふたつの旋律に、ある程度の「時間差」を設けることによって成り立っています。いわば、ふたつの旋律の「追いかけ合い」と「絡み合い」の妙、ということです。

ピアノの場合ですと、両手の十本指で鍵盤を使用することができますので、バッハの旋律の時間差全体を、ある程度まで、演奏者の物理的な行為として視覚で捉えることができます。

ところがギターは、基本的には右手四本の指頭だけで、旋律も伴奏も低音部も表現する、そんな楽器です。クラシックギターが、「小さなオーケストラ」、と喩えられてきましたのも、そのためです。たとえば、ドラムの音も、第五弦と第六弦を少しねじって、二本の弦に交点を作り、その交点を左手の指で押さえ込みながら、右手の指頭で弾きますと、「行進曲」などでよく連打されますスネアドラムのような音が出ます。

また、教会の鐘の音なども、ハーモニックスという、ピタゴラスの原理に基づく手法で、人工的に作り出すことも可能です。とてもメルヘンチックな音色ですよ。

なのですが、なにせものがバッハ。。。

ギターの左四本の指のほとんどは、旋律と伴奏などの「音階」を「運指」として選択することに忙殺されていますので、右手で奏(かな)でる「主旋律」を、ピアノのように、左手の指で時間差を挟んで「追いかける」ことなどはできません。

カラクリを申し上げますと、この左手の「運指」に、「主旋律」と「追いかける旋律(副旋律)」とを「時間的に同時に」仕込みながら展開させる、ということになります。楽譜上には時間差を維持しながら音符が配当されていますが、ギターの実際は、このような「同時間的な仕込み」によって、あたかも右手の四本指から「追いかけ合い」と「絡み」が奏でられているかのように見せかけているにすぎません。一度、数章節ほどを演奏してみましょう。
      1  2   3  4  5 6  7  8  9  10 11
主旋律 タン タン タン タン タ タ タン タン タン タン ターーン
副旋律                             タン タンタン
「主旋律」のはじまりは、もちろん1からですが、同じ旋律(メロディ)で追いかける「副旋律」のはじまりは、10の赤い「タン」が最初です。この10から、「主旋律」と「副旋律」が重なりを開始し、同じメロディに時間差があるにもかかわらず不協和音にならず、見事なハーモニーが創出され、整然と進行していくことになります。バッハの曲からかもし出される荘厳さは、不協になりそうでしかしならないいわば「主旋律」と「副主旋律」との間隙(時間差)の妙から立ちあがるもの、と技術的には言えそうです。

さらにそこに伴奏が加わり、低音部が加味されながら、変奏に突入するや、それはもう、万華鏡を見ているかのよう壮大な音響の「絡み」が展開されることになります。周到な計算のもとに作曲されていたことは、未熟な技術て弾いていても、分かります。


ところで。。。

このバッハの曲を弾き始めた頃は、左指の動き(運指)ばかりに気を取られ、しかも「主旋律」と「副旋律」を、音階は違うものの、「同時に」押さえていることに、なにかしらウソっぽいものを感じてしまい、なかなか興味がわくまでには至りませんでした。上図の10のところから、異なる音階を二本の指で押さえながら進行します。聞いている人には、きっと、わたしの演奏が、「追いかけ合い」をしているように、聞こえるはずです。しかし、弾いている本人にとっては、「同時間」に異なる音階を押さえているだけの感覚しかありませんでした。なにか素人の手品を見てもらっているような感じでした。

何度も練習しましたが、この最初の印象からなかなか脱却できませんでした。

ところがある日、いつもどおり、ギターの巨匠タルレガが作成したと言われています「音階のための練習曲」を終えて、おもむろにこのバッハを弾き始めましたとき、ついに奇跡が起こりました(笑)。

左指の動きがまったく気にならなくなっている自分に気がついたのです。しかもそれだけでなく、「主旋律」と「副旋律」の「追いかけ合い」や「絡み」。それに伴奏部分やその他一切が、ギターを弾いているはずのわたしから飛びぬけてわたしを先導しているかのような、とても心地よい気分にもなってきました。

それまでの練習の成果か、楽譜の三分の一ほどは、完全に暗譜(あんぷ)していましたので、もう一度、今度はすこし目をつぶって弾いてみました。するとどうでしょう。グイグイ、グイグイ、まるで音楽全体がわたしをフーガの宇宙に取り込んだまま、どこまでも運んで行くような、まさにニーチェの言う恍惚感のようなものを感じました。

ひょっとしてわたしはその時、音楽の「演奏そのもの」を楽しんでいたのでなく、音楽から偶然得ることができた快感を感じることができたそのことに、さらに別種の喜悦を体験していたのではないでしょうか。そのことをニーチェは、「激情そのものは自らを享楽する」、と再帰的に表現したのではないでしょうか。「享楽」とは、「楽しむ、味わう」ですから。

ということで事の顛末ですが、いろいろな事情が重なり音楽大学への進学は夢物語となりました。

(2008年06月29日 記)

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)))107節(((
Wenn der Entschluss einmal gefasst ist, das Ohr auch für den besten Gegengrund zu schliessen: Zeihen des starken Charakters. Also ein gelegentlicher Wille zur Dummheit.
最良の反対理由に対してすら耳を塞ごうと一旦決意したとすれば、それは強い性格の徴である。従って痴愚への臨機の意志である。
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超人ツァラトゥストラ咄嗟の機転。。。

と言えば何のことか、分かりませんよね(失礼シマシタ、撤回しましょう)。

「忠告」を受け入れたほうが間違いなく楽になるであろう、と分かっていながらにしてそれに従わないでいようとするとき、人はこの箴言のように、「痴愚」(注)に振る舞う以外ないのではないでしょうか。
(注)障害者への配慮、および教育・福祉的啓蒙上の事情等により、現在、この言葉は使用されなくなってきている。著作権法上、改編する権利はわたしにはなく、やむを得ず「ママ」で引用させて頂いた。
機械なら取替えもきくでしょうが、この「痴愚への臨機の意志」がもし作動せず、したがって「耳を塞」ぐこともできなければ、わたしたち人間の場合、そのひずみが内奥に谺(こだま)し、おそらくは頭・心・言・行のここかしこに、濃淡さまざまな徴候や症候を引き起こすことでしょう。


わたしたちは、見えるもの・見えざるものすべてからの「抵抗」に、日々晒(さら)されて生きています。この地上で「真空」に生きている人など、わたしは見聞したことがありません。たとえ、「いや違う、オレは真空に生きている」、とその人が言ったとしても、わたしのようにヘソの曲がった人間にその言葉は伝わりません。


引きこもりやニートたち、不定期就労にあるフリーターたち、その結果として、誰が命名したのか、ネットカフェ難民たち、等々への対処が、「統計」ばかりをクローズアップするメディアの惰性と、ここぞとばかりの関連出版の収益勘定にほくそ笑む輩などに邪魔され、実際の状況は、なかなかうまく好転していないように聞きます。原稿料はさておき、そのような主題に関する出版印税を、なぜ、ボランティア活動者たちに全額寄付しないのか、とわたしなどは思います。自分のポケットに入れてどうするつもり?と勘ぐってみたくもなります。

そんな彼らに比し、何十倍何百倍あるいは何千倍もの桁外れな所得を得ながら、豪華絢爛たる勝手気ままな夜を過ごされている政治家・官僚・フリージャーナリスト・コメンテーター(識者・学者)たちが、仮にも頭の隅、腹のどこかで、「自業自得だよ」とか、「要領が悪いんだよ」とか、「もともと才能がなかったんじゃない?」とか、「親に甘やかされて育ったんじゃない?」とか、「もともとずぼらで怠惰なんじゃない?」とか、はては、「元々ちょっとおかしかったんじゃない?」とかの本心を秘匿して、政策議論や施策議論を展開されているとするならば、それは、そのひとたちの「人間観」、「死生観」、「世界観」自体が、根源的に「狂っている」ことを示しているのだ、としかわたしには考えられません。もちろんこれは、あくまでも仮定の話ですが。。。

わたし自身、時折必要があって、ネットカフェを利用することがあります。そこでわたしは、「難民」らしき人々を何度も見てきました。わたしは、いつも、それらしき人の顔つきや表情、そして全体に漂う雰囲気などを、それとなく感知するようにしています。

おしなべて「精気がな」く、どこかしら「恐縮して」いて、「何かに脅えていて」いるようでもあり、そのくせ、とても「物静かな動作」を維持します。そして何よりも、彼ら全体をすっぽりと覆い尽くしている、どんよりとした「非適所性(居場所のなさ感)」。。。そんなものを感じます。

きっと彼らは、自らの全身の感官・内官を発動させて、辛うじて、そのガラスのような自同性を覚(さと)られまいと必死になって保持しているのでしょう。


彼らのことをそれとなく考えていますと。。。

見知らぬ土地で、粉雪の舞う夜、新聞紙やダンボールをかき集め、アルコールと薬物でぼろぼろになった裸同然の我が身をそれらで包み込み、団地の人気のない一隅で一夜を過ごした日々が思い出されます。当時は、何度そんなことを繰り返したことでしょう。教会に行きパンを施していただき、炊き出しがある、と聞いては、野菜の雑炊一杯のために何時間も並んでいたこと。道端に落ちているタバコを拾い集めては解体し、一本のタバコに仕立てて吸ったこと。シノギ屋に襲われたこと。ビール瓶で頭を割られたこと。。。

そして、通りすがりの罵声。

わたしはそんなときいつも、へべれけになって、小さくしゃがみこんだまま呟いていました。「オマエタチノ平安ナンテ、木枯ラシガ吹ケバ、吹ッ飛ブンダヨゥ・・・」

しかし、それでも死なせてくれなかった当時のわたしの「生」とは、なんと偉大な「力」を持っていたのでしょう。上述の彼らにも、その「力」があります。だからネットカフェであれどこであれ、彼らは生きていくでしょう。どのような処遇・待遇のなかで生きるかなど、どうでもいいことなのです。わたしはそう思って生きてきました。

姑息な施策なら、しないほうがましです。いずれは彼らの「力」が大河となって、歴史を塗り替える時は到来します。為政者並びに追随者が恐れているのは、むしろそちらの流れです。だからこそ、怯懦(きょうだ)にも、姑息な政策を「小出し」に施しているにすぎません。ジョルジュ・アガンベンが「排除」と「包含」を同じ文脈で使用するのは、そういった「法」の性癖を見通しているからです。

蜂起せずんば、片言を投擲(とうてき)せよ!とわたしは、自分にも彼らにも言いたいと思います。そして孤立せず、常にひとところに集合する機敏さを準備し、さらにニーチェの箴言が教えてくれているように、他者を基準にせず、自分の「生(力)」に絶対的な自信と誇りを持ち、新たな「道徳」を創造されることを期待したいと思います。

(2008年06月29日 記)

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)))108節(((
Es giebt gar keine moralischen Phänomene, sondern nur eine moralische Ausdeutung von Phänomenen.....
道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する――――
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前文・後文にあります「現象」は、いわゆる現象学でいうところの、「意識現象(ノエマ)」、というほどこみいったものではなく、わたしたちが日常ごく自然に使用する意味での「経験的事実」や人間行為一切を含む「事象」などの、トータルな表現として読まれたほうが、夾雑な問題が派生しなくていいような気がします。

ただ、後文に登場します「道徳的解釈」のうちの「解釈<Ausdeutung アォスドイトゥング>」につきましては、シュライエルマッハーから啓示を受けた「解釈学」の本家ディルタイとニーチェとが、イギリス産業革命に端を発した十九世紀末のヨーロッパの危機的状況を同じく生きていたこともあり、いささか気になるところではあります。

従来の形而上哲学(形式論理学)に、なぜこの時代、「解釈学」が対抗的に登場するようになったのかについては、この箴言散策の122節において(伝統的な形式論理学と比較しながら)、少しだけですが触れておきましたので興味のある方は参考になさってください。

さて、

このNIPPON国を代表する威風堂々たる現象学学者のおひとり、新田義弘氏(1929-)は、「人間の知性による真理の学的把握にひそむ仮象の発生を、生成する現実に帰ることによって暴露しようとしたのはニーチェである。」と明言されています。(『現象学と解釈学』第一章 ちくま学芸文庫 初版2006年 論文初出は1976年)

日本語の「暴露(ばくろ)」には、なにか恫喝的なニュアンスが感じられますが、「現象学」の術語としてはもっと繊細で、むしろ逆に事象をとても尊重した表現として使われます。日本語の響きがどうもねえ。。。バ・ク・ロ!ですから。「暴露本」なども、ベストセラーになるNIPPON国です。しばしの辛抱は、仕方がありません(笑)。


この「暴露」は、「解釈」が実現していく動態を示すとても大切な表現でもありますので、ここはハイデガーの叙述に助けを請うことにしましょう。もちろん、「暴露」とはなんぞや?についてです。

まずは、研究者の皆様方がよく引用されます、分かったよな分からないような箇所から。。。
おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身のほうから見させるということ(『存在と時間』七節のC)
頭痛がしそうです。じつにまわりくどい表現ですよねエ。

第一部第一篇の訳者原佑氏は、同書同節のAにおいて、以上の内容に相当する語句を、「自己示現」と翻訳されています。「示現(じげん)」というご翻訳はみごとです。

「示現」とは、「神・仏が霊験を示し現すこと」ですが、そのように表現する以外ないほど存在者(人間)につきまとう「存在機構」の捕縛は困難なのだ、というハイデガーの真意を射当てるにじゅうぶんすぎるほどの表現だと思われます。

非力浅学なわたしの理解の及ぶ叙述は、むしろこの「自己示現」の後方にあります。ハイデガー自身が、ギリシア語<phainomenon ファイノメノン>の語源分析から得た叙述です。
存在者は、それへと近づく通路の様式に応じて、さまざまな仕方でおのれをおのれ自身のほうから示すことができる。それどころか、存在者が、おのれ自身に即してそれでない当のものとして、おのれを示すという可能性すら成りたつのである。(同書同節のA 原佑訳 一部傍点あり)
ポイントは、ふたつです。

ひとつは、「それへと近づく通路の様式」です。これは、「さまざまな問いかけの仕方」です。

ふたつめは、「それでない当のもの」です。これが、わたしたち自身と常に誤差(存在論的時差)を保ちながら、「影」のようにわたしたちに先行するところの「存在(性)」です。

いかがでしょう。こちらのほうがいくぶんか分かりやすいですよネ。「問いかけ方」次第では、存在者(人間)の「生」をそのつど産出している母体たる「存在(性)」が、露わに現れ出づる可能性がある、ということです。もちろん、「問いかけ方」があまりよろしくない場合には、隠れて出てこない、ということにもなります。だからニーチェは、「真理」を「女」性に喩えているのです。

ウ~ン。。。日本語の「バ・ク・ロ!」の印象とは、相当ちがいます。それだけでも感じて頂ければ、みなさんもハイデガーの第一関門突破です。オメデトウ!!!


このあたりで、上掲の箴言に戻りましょう。

ニーチェの言う「道徳」とは、「よい・わるい」や「善・悪」に象徴されています。興味のある方は、主題が多岐にわたる『善悪の彼岸』より、『道徳の系譜』所収の「第一論文」「第二論文」を読まれるといいかな、と僭越ながら思います。岩波文庫版が手ごろで、古書店で安価に入手するのも一手かと。


さて、構図としましては、「よい・わるい」のほうが貴族の道徳。「善・悪」のほうは、奴隷(蓄群)道徳、とされています。一見しますと、それ自体の内部、あるいは、双方に、矛盾対立が見受けられるようでもありますが、そこは形而上学に徹底抗戦をしかけたニーチェ。いずれも、人類の長い歴史のなかで、「力」とそれへの「意志」が、そのように類型化し固定したのである、とあくまでも人間の内奥に隠れている「力(衝動・本能一切)」の存在(性)にこだわり、他者の批判を頑として寄せつけません。

つまり、人類の歴史には当初から、範型としての「道徳」が「現象(経験的事実)」として先行していたのではけっしてなく、人類自らの経験に、人類自らが、どのように「問いかけ」、そしてそこにどのような価値を出現させ(暴露し)、さらにそれらをどのように序列化したのかによって、人類は破壊と創造を繰り返してきたのだ、という主張の一歩手前で沈黙した箴言となっているように感じます。

(2008年06月28日 記)

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)))109節(((
Der Verbrecher ist häufig genug seiner That nicht gewachsen: er verkleinert und verleumdet sie.
犯罪者はしばしば彼の犯行をやるほど十分に成長していないことがある。彼はその犯行を貶し、また謗る。
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「犯罪者」という言葉が登場しますのは、この箴言散策で扱っています『善悪の彼岸』第四章では、次節と本節のみです。次節は、「弁護人」に焦点があてられていますが、本節では、「犯罪者」自体が、表現の前景となっています。なお、読みの点では、「貶(けな)し」、「謗(そし)る」、となります。

慣用的に表現すれば、「魔が差さした、思わずに」、ということになるでしょうか。


箴言全体を病理的な現象として見立て、あえて概念化の道をたどれば、「衝動行為」というものに行き当たります。お金を持ちながらの「窃盗癖」などがその典型です。過度な例としましては、「放火癖」などがあり、自傷的なものとしては「渇酒」などがあげられています。(以上『精神医学事典』 弘文堂 1981年版参照)

ただすこし気になりますのは、犯罪を犯した当の同じ人物が、その犯行を「貶し、また謗る」、という点です。たしかにニーチェは、「犯行をやるほど十分に成長していない」、とは語っていますが、その「遂行」から真偽の極めて不確かな「反省」までの紙一重のあいだに、何が潜んでいるのでしょうか。

そのような問いを箴言に投げかけてみますと、少し不気味な箴言にも見えてきます。

「その犯行を貶し、また謗る」ことはあっても、そこには、「謙譲」や「謙遜」の姿が見受けられません。むしろわたしは、余りにも人間的な「ふてぶてしさ」のようなものすら感じます。

「犯行をやるほど十分に成長していない」、とニーチェが語ったのは、犯行の「遂行」からその「反省」までの間隙(かんげき)に、その人の「意志」の「他律性」のようなものを見ていたからではないでしょうか。


ところが、そのように言ってしまいますと、やっかいなことに、逆方向からの問題もおもむろに立ちあがってきます。

それは、「十分に成長」した「犯行者」または「犯罪者」、というものの表象のし難さのようなものです。


ニーチェは、存在の「作用・活動・生成」をそのつど可能化している「力」の背後には、『何らの「存在」もない』(『道徳の系譜』(「第一論文」十三節)、と明言しましたが、精神分析学者グロディックは、このニーチェの「力」をその後、<Es エス>と命名します。そして、この「エス」を、自らの用語として自著に採用したのが、みなさんよくご存知のフロイトだと言われています。(上掲『精神医学事典』「エス」の項参照)

「エス」は、次のように規定されています。(同書「エス」の項より)
エスは系統発生的に与えられた本能エネルギー(攻撃的・リビドー的)の貯蔵庫であり、快感原則だけに従い、無意識的であり、現実原則を無視し、直接的または間接的な方法(症状形成や昇華)によって満足を求める。それは論理性を欠き、時間をもたず、社会的価値を無視する。
なかでも、「論理性を欠き、時間をもたず、社会的価値を無視」し、「直接的」な方法によってでも「満足を求める」、という箇所は、驚愕すべき内容です。ただわたし自身は、体験的にじゅうぶんこの内容が了解できています(次節の後半などをご覧ください)。

仮にも、このような「エス」が、(見えはしませんが)、わたしたちの「存在性」の全権者であった場合、わたしが上で提起しました、『「十分に成長」した「犯行者」または「犯罪者」というものの表象のし難さ』は、わたしのなかにいかほどかの論理性が貫徹されている限りにおいて辛うじて成立している陳述であって、実は、『「十分に成長」した「犯行者」または「犯罪者」』は、すでに日常のこの時空間に突入し終えていて、ここそこの「内部」にも「外部」にも跋扈(ばっこ)しているのだ、というふうに訂正する必要をわたしは迫られることにもなります。


「ふてぶてしい」犯行よりも、「エス」に緊縛された「十分に成長した」、しかし「間接的な方法」によっては昇華しえない犯行に、わたしたちは、瞬時、自己存在の深淵をかいま見、そして狼狽するか、あるいはただそこから逃亡しようとしているだけではないのでしょうか。それが、あらたな歴史の到来を告げる黙示録であったかもしれない聖書的な教訓にあやかることもなく。。。です。

ニーチェは、『道徳の系譜』「第三論文」も終盤にさしかかるあたりにおいて次にように語っています。
われわれの全存在は、われわれ自身のうちにおいて真理への意志がそれ自らを問題として意識するようになるという意義をもつのでないとしたら、果たしていかなる意義をもつのであろうか・・・(二十七節 一部傍点あり)

ニーチェの眼光は、現代社会をめぐる事象の数々にまで、すでに届いています。

(2008年06月28日 記)

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