ハイデガー(1889-1976)の主著であり、難解な未完の大著でもある『存在と時間(Sein und Zeit: Being and Time)』の意義は、いくら強調しても過ぎることはない、とわたしは浅学ながら頑なに思ってきた。
蒼古のギリシア哲学以来ドイツ観念論の終焉にいたるまで猛威を振るい、否その後も神学を餌食にして隙あらば復活せんとする無世界的な主観的思惟の犠牲夥しい地上戦に対し、ただ一人、人間「存在」の意味に対する問いだけにみずからを供犠し、大地を掘削する土工さながらに身をやつして、わたしたち人間(存在者)を人間たらしめている「存在」の実存論的地層なる「時間性(Zeitlichkeit)」を探り当て、ついに、無世界的な主観的思惟(概念)の猛攻に予期せぬ方域から奇跡的なとどめを刺した人、その人がハイデガーなのである。
さてこの「時間性(Zeitlichkeit)」であるが・・・
とりあえずは、『存在と時間』のなかで最も端的に縮約された表現を、じっくりと眺めていただきたい。
- ' gewesend-gegenwärtigende Zukunft '
「既在しつつある現成化する到来」(第六十五節 渡辺二郎訳)
これだけの叙述で開眼する人は、奇特なお方である。普通は、目が点にもなろう。金縛り、とでも言えばよいであろうか。血気盛んな頃のわたしもそうであった。
たったこれだけの表現に、なぜわたしたちは苦痛を感じるのであろうか。
それは、わたしたち一人ひとりの思惟が、わたしたちのグロテスクな「存在(実存)」の開示に踏みとどまりえない傾向を、すでに獲得してしまっているからである。
この「存在」からの思惟一切のフライングを見透していたからこそハイデガーは、恩師フッサールの素朴な「エポケー(判断一切の保留停止)」という知恵をあえて「強制終了」に改造し、ありとあらゆる概念・陳述判断を「邪魔者(Störenfried)」として取り払いながら、同期的・統一的・全体的に立ち上がっては気づかれずにいた「存在(実存)」自体の「語り(Rede)」を転写することに成功したのである。
表現の難解さはそのためであり、ハイデガーの誠実の証しでもある。
「時間性(Zeitlichkeit)」はもちろん、「到来(Zukunft)」も「既在(Gewesen)」も「現成化(Gegenwärtigen)」も、わたしたちが慣れ親しんでいる「概念」などとは、そもそも縁のないもの、つまりは、「存在(実存)」自体から証しされ木霊する姿なく音なき「語り(Rede)」の、致し方のない分節なのである。わたしたちは誰一人の例外もなく、そのように一種デモーニッシュな「存在(実存)」から絶えず逃亡しつつ、日々存在「者」たりえているのである。
ハイデガーは、こう語る。
- 『時間性は、根源的な「おのれの外へと脱け出ている脱自」それ自体なのである。だからわれわれは、到来、既在性、現在という、すでに性格づけられた諸現象を、時間性の脱自態と名づける。時間性は、最初から一つの存在者であってその存在者がようやくおのれの内から外へと踏み出るというのではなく、時間性の本質は、諸脱自態の統一における時熟なのである。』(同上)
わたし自身からは、「できる」、と申し上げたい。
そのひとつは、「存在(実存)」の証しである「時間性」そのものに、「存在(実存)」自体が飲み込まれる瞬間である。
この出来事は、表層に保たれているはずのわたしたちの意識作用(ノエシス)と意識対象(ノエマ)との安定した同期性の瓦解・破砕・断裂、といった精神現象を派生させる。逃亡の道を閉ざされたその精神現象が、非在ながらにして存在を主張する姿なく音なき「時間性」を戦慄のさなかに捉えてしまうのである。
ニーチェがそうであったし、ヘルダーリンもそうであった。ハイデガーもそうであったのかもしれない。逃亡の時の再来を待ちきれるか、あるいは「時間性」の猛追に投降するか、それが生死の分かれ目なのであろう。
わたしの貧しい体験からは、そのように素描することができる。がしかし、意図して体験できるものではない。また、そうあってほしくもない。
そこでふたつめ、ということになるが・・・「鯉の滝登り」を表象していただくことにした。
激しく下り落ちる水流に翻弄されながら、それでも跳ね飛ぶように登り切らんとする「鯉」を表象していただくと、いま少しアクチュアルに、ハイデガーの発掘した「時間性」を体感できるのではないか、と思う。
「時間性」を「水」自体と見立ててみる。滝の「水流」ではなく、あくまでも「水」自体とお考えいただきたい。議論の分かれる点ではあるが、「水」がなければ「鯉」自体が存在しない、とだけ今は指摘しておく。
「水流」は「鯉の滝登り」という(世界)現象を全体的・統一的・同期的に時熟させている時間性の脱自態である。
「鯉の滝登り」は、「水流」が「下り落ちる」ことと同期化されている。ハイデガーは、「時間性の第一次的現象は到来」(第六十五節)である、とも指摘しているが、まさに「下り落ちる(到来する)」ことと、時を分かたずして「滝登り」が現象している、と言える。先後関係を「邪魔者」として、ハイデガーは取り去ってしまっている。
次に・・・と言いたいところではあるが、実は「次に」という継起的な思惟も、ハイデガーは破棄する。仕方がないので、時を分かたずして、と申し上げておく。
皆様方の表象にある「鯉」は、不断に消えているはずである。しかしながら、そこに「ある」。なぜであろうか・・・
ハイデガーに倣えば、こういうことになる。
すでに「存在」してしまっている「鯉」は、そのつど「過去」に連れ去られ消えたのではなく、既在という脱自的様態として、到来と時を分かたず現象しているのである。
エッ???と感じられる方々も多かろうと思う。
それほどまでに、「鯉」が「過去」に消えつつある、という分節的な認識は、わたしたちの「存在」を蹂躙してきたのである。しかしこの認識の自明性は、無世界的な(世界から超脱した)主観に根拠をもつ、いわば思惟のフィクションにすぎない。
それでも皆様方の表象において「鯉」が滝登りして止まないのは、この既在という時間性の脱自的様態に秘密がある。
「鯉」が「水流(世界)」の「中」に「鯉(存在者)」としてあらしめられているのは、疑いえない現事実である。この疑いえない現事実(被投性)を第一次的に告げ知らせているのは、第三者の分析や推理や証明や陳述判断(命題)などでは毛頭なく、「鯉」、したがって皆様方お一人おひとりの姿なく音なき「存在」に宿る根源的な気分(情状性)「不安」なのである。この「不安」は、自覚されうる一般的な感情一切とは、異なる。
時間性からのこの根源的な「気分」の脱自的様態が、「既在」である。上述した「到来」と同期性が保たれている点に、ご注意をいただきたい。
この根源的な気分である「不安」をハイデガーは、次のように転写している。
- 『それはすでに「現にそこに」あるのだが――しかもどこにもないのである、つまり、脅威をおよぼすものは、胸苦しくさせて、ひとの息をふさぐほど近くにあるのだが――しかもどこにもないのである。・・・中略・・・。不安がそのために不安がる理由は、世界内存在自身なのである。不安のうちでは、環境世界的な道具的存在者は、総じて世界内部的な存在者は、沈没してしまう。「世界」はもはや何ものをも提供することはできず、同様に他者の共現存在もできないのである。』(第四十節)
「鯉」が滝登りし続けているのは、この不安、この不気味、この世界の無意義性の不断の追跡を遮蔽し、そこから逃亡・脱出し続けている姿なのである。そもそもわたしたちが、そうなのである。
これが、現成という脱自様態である。この様態も、到来・既在と同期性を保っている。
- 「既在しつつある現成化する到来」
「鯉の滝登り」は、「鯉」みずからの必死の逃亡・脱出であったのである。
ところで・・・
刻一刻をどのように逃亡・脱出するかは、人それぞれに委ねられた決意あるいは決断によろう。
しかし島国を生きるわたしたちが忘れてはならないのは、不安、不気味、世界の無意義性から逃亡・脱出することすら許されなかった、そして今なお許されていない人種・民族が「ある」ということである。
彼・彼女らは、「水流」に飲み込まれたまま、滝つぼにはじかれ、その絶望的な惨状のさなかにおいて「水」本来の「語り」を聞きえたのである。
- `I AM THAT WHICH I AM;'; 'Exodus3.14',from Young Literal Translation.
概念の積み木の箱の中にも、思惟の延長線上にも、神の現住所がないことを鮮烈に証ししたのが、まさにイエスなのである。
- 神の力を信ずるのは
おのがうちに神を宿した者のみだ。
(1798年作、ヘルダーリン「世の喝采」より 川村二郎訳)
(以上の記事は、2011.02.06、に書かれたものです)
0 件のコメント:
コメントを投稿