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著者An |
生の臨界点をこれみよがしに貪り尽くし、そして過ぎると、同じ生の対極にある臨界点に遺棄されて、しかもあろうことか今度は怯えながら生のみあらんことを殊勝に願う、そんな愚かでばかばかしいとしか言いようのない振幅を縦にも横にも飽きずに反復させてきたもの、それが宗教という名の見えそで見えぬ怪物ではなかったのだろうか。
「旧約聖書」が血なまぐさいのは、おそらくその飽くことなき反復のためであろう。
今しがたなんとはなく、M・エックハルト(1260?-1328?)の「説教」をひとつふたつ拾い読みしてみた。ひさしぶりではある。その一節に、次のようなくだりがあった。
永遠なる言(ことば)をわたしたちが聞こうとするのを、三つのことが妨げる。第一は身体性であり、第二には多数性であり、第三には時間性である。人がもしこれらの三つのことを踏み超えて行ったならば、その人は永遠の内に住み、精神の内に住み、一性の内に、砂漠の内に住むこととなり、そこで永遠なる言を聞くこととなろう。(岩波文庫版 田島照久訳 なお講談社学術文庫版別訳が先行)精緻な論理(思弁)からの急激な逸脱と転調、そして余韻として演出された陶酔。。。これがエックハルト「節(ぶし)」である。いや、会堂に集っていた当時の人々のセグメントの状態あるいは関心の濃淡などとともに造形された語り口調、と推測したほうがよいかもしれない。
陶酔感に浸っても、家に帰れば当時の人々だって悪戯はしたのだ。そうして目一杯振り切れてしまった精神を携え、礼拝日になるとまたぞろエックハルト節に身も心も預ける。
ソレデヨイノダ、と言われれば「そうですか」と引き下がるしかない。
しかし新年早々吠えたいわけではないが、この程度のいわば論法でエクスタシーを感じるとは、わたしもいささか偏向した人間であるかもしれないが、あなた方もいささか偏ってはいないか、と尋ねてみたくもなる。
エックハルトの上掲説教の理屈は簡単だ。
神の言葉を聞くためには、身体性と多数性と時間性を放棄(全否定)せよ!そうすれば聞こえてくるのだ、ほら、ほらあ、ほらあああ!たったこれだけである。
しかしこれは、人を小馬鹿にしたただの思弁にすぎない。
三つを全否定すれば聞こえてくるとは言うが、三つを全否定してなお残り神の言葉を聞いている「人」とははたして誰なのか、また何者なのか???
いっそ、死んだら分かるんジャイ!、と憮然と言い放った方が潔いのではないか、とわたしなどは思ったりする。
ただその言い方を採用すると、おそらく信徒たちは来なくなっただろうとは確信する。
とすると、当時エックハルトに集っていた信徒たちは、わたしが愛するマッチ売りの少女のように真理(愛)から全く見離されていたというわけでは必ずしもなく、むしろ非-真理に傾斜した自分を真理に近いところまで揺り戻してもらうことだけを欲して集っていたのではないか、だからそれだけ余計にエックハルト自身も、期待に応えるべく高度な演出をみずからに課し遂行せざるをえなかったのではないか、そんなふうに(少し意地悪く)感じたりもするのだ。
要は「振幅の反復」のなかに浮遊する感じに両者とも魅せられていたのではないか、と思うのだ。そのほうが、裸の王様であることをわたしのようにエックハルトに指摘するよりも、当時の信徒たちにとっては大切なことであったのだろう。
これがエックハルトでなく、『現出の本質』にみられるようなミシェル・アンリ風の思弁であったなら、大概の人は見抜けなかったはずである。
さあ、道徳教育を掲げた日本丸だが、無事その帆が絶好の風をとらえるかどうか。信仰者の浮遊感に優るものが醸成されるかどうか。
振り返って「岐路」と呼ぶにふさわしい、そんな一年になるような気がしてならない。
そこで一句。
お正月 なに欲しさゆえ あたたかい