2013/01/08

ニーチェ箴言散策集・私家版 (7)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


90節から94節をどうぞ。。。既投稿分閲覧右サイドバーリンク便利。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))090節(((
Schwere, schwermüthige Menschen werden gerade durch das, was Andre schwer macht, durch Hass und Liebe, leichter und kommen zeitweilig an ihre Oberfläche.
重苦しく憂鬱な人々は、他人を重苦しくするその当のものによって、すなわち憎みと愛によって、軽やかになり、時としては自分たちの表面へ現れて来る。
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さらりと読めてはしまうのですが、それだけにとてもやっかいな箴言です。

彼/彼女からボソリとこんなこと呟かれたら、皆様方はどうお応えになられますか?

「どうした?熱でもあるの?」

困惑しちゃいますよネ。

Ian Johnston氏は、次のように英訳されています。(注)
(注)Johnstonia著作権項目に従い引用。
Heavy, melancholy men become lighter precisely through what makes other people heavy, through hate and love, and for a while come to their surface.
氏の翻訳のカンマの使用法、特に ', and ' に注目して主述関係を少し整序しますと、木場先生が、「時としては自分たちの表面へ現れて来る」、とほぼ逐語訳された箇所は、むしろ「その外観を装うかのように(軽やかに)現象することもある」、と意訳したほうがよかったかなと僭越ながら感じます。(注)
(注)ニーチェのこの極めて三次元的な視座は、ハイデガー『存在と時間』第七節に活かされている。さらに言えば、マルコ(12.38-40)マタイ(23.1-36)ルカ(20.45-47)に記録されたイエスにも通底するものである。
つまりはこういうことです。

ニーチェは、「(重ぐるしく憂鬱な)人々」と「(重ぐるしくさせられた)他人」とを、わたしたちがよく論じる「自他問題」(フッサールなどもそうでしたが)の一般性からは大きく逸脱したところで捉えている、ということです。

表現の不親切さは「箴言(しんげん アフォリズム)」の特権ですが、この点を見逃しますと、おそらく当箴言の価値はなくなるであろうと、わたしは感じています。


少し精神病理学に迂回してみましょう。

ニーチェがこの箴言で捉えています対他関係は、1895年フロイトによって指摘されました「転移(Übertragung)」というアンキャニーな回路を先取りしたもの、と考えられます。


精神疾患の臨床治療は、それがどのような種類のものであれ、初診の段階からしてすでに、患者側の大小強弱さまざまな「否認」や「抵抗」などの障壁を前提に開始します。

なかでも「転移」と言います現象は、いまある患者の精神状態を引き起こしたと思しき過去の或る状況や出来事、またはその状況や出来事を生起させた過去の或る人物へのあらゆる感情・情念を、眼前にいる治療者(医師)や関与者(イネイブラー)を当人と見たて激しく感情移入しては再構成する、そのような言動一切を指します。

このように言いきってしまいますと、「ソレデイイジャナイカ」、と言われそうなので、もう一言添えますと。。。

患者側からの愁訴は、多弁であれ寡黙(かもく)であれ、そのすべてが患者の理性による反省が加えられた表現(陳述)であるとはかぎらず、時には、愛憎悲喜に涙が入り混じることもあるでしょうし、昂じて、乱闘もどきの修羅場を診察室で治療者(医師・関与者)が体験してしまうことだってあるでしょう。もちろん虚偽の言動も含まれます。

そこで求められるのが、治療者側の「中立性」ですが、治療者も同じ人間です。患者の否認・抵抗・感情の発露様態・虚偽などに巻き込まれ逆上することも、不自然なことではありません。その極端な、しかも想像以上に多く見受けられますのが「共依存」です。ミイラ取りがミイラになってしまうことです。

こうなりますと、一切の主導権は「当人」からも「関与者」からも遊離してしまい、傍若無人たるものに化身します。その化身した怪物を、ニーチェは捉えていたのでしょう。

しかし、このような「転移」を梃子にした治療を飛び越えては、精神科医は一歩も前に進むことができません。同時に、患者の言説に中立を堅持し続けもしなければなりません。ここに、聴診器を持たない医師、「転移」を治療に生かさなければならない精神科医の、毎回そのつど一回きりの気の遠くなるような真剣勝負とその困難さがあります。それが、内科医や外科医たちとの根源的な違いです。

患者を愛しても、憎んでも、その段階で臨床医・精神科医としては失格ですし、治療もすべて、その段階で破綻します。

ニーチェは、人間存在を精神科医以上「中立」な目をもって、見つめていたのかもしれません。


本書『善悪の彼岸』230節においてニーチェは、「精神」につき次のように激しく論じています。
人々が「精神」と呼ぶ命令的な或るものは、自分のうちでも自分の周囲に対しても支配者であろうと欲し、自分を支配者として感じようと欲する。それは多様から単純に向かう意志をもち、一緒に結び合わせ、拘束し、支配しようとし、また実際に支配的でもある意志をもっている。・・・中略・・・。他の精神を欺いたり、他の精神の前で自分を偽装しようとするあの精神のどうかと思われる熱心さも同じ類のものである。これは創造し、形成し、変化しうる力のあの不断の圧迫と衝迫によるもので、精神はそこに自己の仮面の多用と老獪とを享しみ、そこに自己の安全感をも享しむ。
我が身を切り刻むようなニーチェの天才と文才が、ここに開花しています。

ちなみに、ニーチェの父親は医師ではなく牧師でした。

(2008年07月06日 記)

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)))091節(((
So kalt, so eisig, dass man sich an ihm die Finger verbrennt! Jede Hand erschrickt, die ihn anfasst! - Und gerade darum halten Manche ihn für glühend.
全く冷たく、まるで氷のようで、彼に触れると指も焼けんばかりだ! 彼を掴む手はすべて吃驚する!――そこで、まさにそれ故にこそ大概の者は彼を熱烈だと思う。
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「熱烈だ」の原文はご覧のとおり<für glühend グリューエント>で、その他の語義としましては、「(赤々と)燃えている、(赤々と)輝いている」、などを候補としてあげることができます。なお、「吃驚する」は、(びっくり)する、です。


「峻酷(しゅんこく)」とはどのような人間的様態をいうのかについて、みごとに感得させてくれる箴言です。情にほだされることがまったくなく、それでいて力強くもありきびしくもある。。。そんな「燃え輝くような」様態。


少しイメージは違うかもしれませんが、正中・元弘の変に敗れ、隠岐に流罪となりました後醍醐天皇などを、わたしは思い浮かべます。

後醍醐天皇については評価の分かれるところではありますが、その是非はさておき、『増鏡(ますかがみ)』という作品に、次のような一節が残されています。拙訳を添えておきます。

都にもなほ世の中静まりかねたるさまにきこゆれば、よろづにおぼしなぐさめて、関守のうち寝るひまをのみうかがひたまふに、しかるべき時の至れるにや、御垣守にさぶらふ兵どもも、御気色ほの心得て、なびきつかうまつらんと思ふ心つきにければ、さるべき限り語らひあはせて、同じ月の二十四日のあけぼのに、いみじくたばかりて、かくろへ率てたてまつる。
都については、依然として世情が穏やかならぬようにささやかれているので、天皇様は、あれやこれやとはやまるお気持ちをなだめられ、ただ警固の兵が寝込むその隙ばかりを探っていらっしゃるが、ついにその時がやってきたのであろうか、天皇様の警固に仕えている兵士たちも、そのご様子から、この流罪の地、隠岐からの脱出を決意なさったことを察し、伺候し申し上げたいと思う心を寄せていたようであるので、そのうち信頼の置ける臣下とだけ語りあって打ち合わせを済ませなさり、同月の二十四日の明け方に、熟慮の果て、人目につかないようにして、臣下たちは、天皇様を連れ出し申し上げている。(アノニマス)

前段では、臣下たちが絶望の極みにあっても、後醍醐天皇は、疲労困憊し眠り込み霊夢を見るまで、ひたすら「密教の秘法(鎌倉幕府倒幕の祈祷)」に勤めていた、と記録されています。

上述の場面はそれに続く段ですが、浮き足立つ「警固の兵」にも目もくれず、臣下を人選し、手はずを整えさせ、すばやく実行に移させる姿など、「偉人・英雄」に等しくうかがわれる「峻酷」」な資質を、感じることができます。


評価が分かれる、と上で申し上げましたのは、後醍醐天皇ご自身の所業に対して「分かれる」、と言いますより、凡そ、「偉人・英雄」、と称される「選ばれた人たち」が、本性としてもつアンビバレント(両面価値的)な資質そのものにすぎないものであって、本来は、良し悪しの評価を下すべき筋合いのものではない、というのがわたしの考え方です。


上掲の箴言は、その意味ではまさにニーチェが、「偉人・英雄」とは何者ぞ、に対する解答を、「理屈(論理)」ではなく、ただ人々を「驚愕」させることをもって示した逸品のひとつ、と言うことができるでしょう。

(2008年07月06日 記)

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)))092節(((
Wer hat nicht für seinen guten Ruf schon einmal - sich selbst geopfert? -
よい評判を得ようとして――自分自らを犠牲に――しなかった者がかつてあったろうか。――
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十八世紀中葉に起こりましたイギリス産業革命は、それまでの人間がもっていた宇宙観・自然観・死生観・人生観などを、まさに根底から覆すほどの大事件でした。

十九世紀の前半期までには、すでにヨーロッパ諸国にもその余波は及んでおり、西欧近代資本主義社会の大きな礎石が、築かれることになりました。もちろんニーチェも、そのようなヨーロッパの趨勢をのちに強く感じ始めますが、1844年の彼の誕生自体は、王国制(プロイセン)と帝国制(ドイツ)とがしのぎを削っていた、ちょうどその狭間にあたります。


21世紀を生きるわたしたちは、その産業革命から数えて、ほぼ250年後の世界を体験しています。

しかし、このNIPPON国の世相を顧みるためには、1ドル360円の固定相場から、変動相場制に鞍替えさせられた1973年という、はるかに短いスパンからカウントする視点も、一方では必要でしょう。この決定的な時期から、たかだか35年間(2008年現在)しか経過していませんが、人間と社会に今なお与えている影響は甚大です。

たった35年というわずかな期間にわたしたちは、完全に端末機器の虜になり果て、時・所を選ばず、しかも汗水も流さず、この世界を動かすここができるといった蝿のようにたかる共同幻想に翻弄され続けながら、ネットと現実界を、人の目を盗む猫のような知恵とすばしっこさで往来しています。そう言うわたくしも猫?になるでしょうか。

その間、グローバル経済は自縛の泥沼にはまり、都市銀行をはじめ、関与した金融機関・企業などのそもそもの不埒(ふらち)も、ようやくにして、露わになりはじめてきています。

徐々にではありますが、「格差社会」という名の自我分裂が、じつは米国の思惑を受け狡猾に仕組まれた、小泉-竹中「構造改革」路線の思想的な本性に起因するものであったことに、遅まきながらこの国民は気づきはじめ、そして狼狽し、ここかしこおいて個々ばらばらに、しかも自暴自棄的にも、矛盾を昇華させています。一人優雅に眺める劇場空間はあっても、全員で狂気乱舞するカーニバルが、この国には存在しません。明治維新革命未完の負荷が、今に至るまで、その潜勢力を保持しています。これが「島国」NIPPON国の呪縛であり、精神の現状です。

目を覆いたくなるほどの言葉の神話化も、ますます加速しています。

携帯小説をもてはやしたのは誰でしょう。芥川賞受賞作家の判定もままならぬほどの批評家・評論家の鈍磨は、なぜ起こっているのでしょう。すべては、汗水流さない特権階層の個人所得の想像を絶する上昇に比例しています。

多彩なCMの背後で、その場かぎりの野望を正義だと勘違いする「人間獣」たち。彼らは、七十年代を大学生として生きた、その生き残り戦士たちです。そしてさらにその後を追いかけるシンパやその迎合者たち。


上掲箴言を書き留めたニーチェの時代と「今」とには、こんなにも差があります。「よい評判を得ようとして」「自分自らを犠牲に」せずとも、今は、端末機器に責任を転嫁するか、取り換えてみるか、ポイっと捨ててしまうことでも、「自分自ら」を守ることができます。しかし、端末機器から自らを超脱させたわけではありませんので、所詮は、他律的。


恥ずかしながら。。。

よく見れば欠片ほどもない「よい評判」を得るために、失禁や記憶障害〔ブラックアウト)が慢性化するほど「酒」に溺れ、酩酊してはここかしこで暴れ、一切を破壊し、ついには一切を喪失したかつてのわたしの長年にわたる狂気のように、「自分自らを犠牲に」することなしには、知恵の啓示を得ることすらできなかった人間もいる、ということもまた事実です。

わたしが、涙なしには読めない一節を最後に紹介しておきます。

本書『善悪の彼岸』第六章からの引用となります。

『「哲学的にでなく」、また「賢明にでなく」、何よりも利巧にでなく生き、しかも生の凡百の試煉と誘惑に立ち向かう重責と義務とを感じるものだ。――彼は絶えず自己を賭ける。彼は分の悪い賭け事にこそ敢えて臨むのである・・・』

この社会をよく分かっていなかった頃の若い自分が、滲んで見えます。

「よい評判」は、得るものではなく、自らが自らにに下す評価価値です。

これがニーチェの「力」の真髄であり、主人道徳、と言われるものの起居振舞でもあります。

(2008年07月06日 記)

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)))093節(((
In der Leutseligkeit ist Nichts von Menschenhass, aber eben darum allzuviel von Menschenverachtung.
愛想のよさのうちには、人間憎悪は微塵もない。しかし、それだからこそ人間侮蔑が有り余るほどである。
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「愛想のよさ」の原文は<die Leutseligkeit ロイトゥゼーリヒカイト>で、「(目下の者に対する)気さくさ、やさしさ」などを意味する語ですが、箴言であることをご配慮されたのでしょう。

「愛想のよさ」自体は、「愛嬌のある様態や、人あしらいの上手な振るまい」、などを指します。待遇関係上の制約は、特にはないように感じます。

この箴言散策で取り扱っていますもののなかでは、比較的分かりやすい内容になっています。複雑な思索を介することもなく、なにかの場面を想起している最中、咄嗟に書き留めたものであったのかもしれません。


上掲の箴言を少し意地悪く表現しますと、「八方美人」、などになるでしょうか。

当人にしてみれば、「憎悪」はおろか、「悪気」すらもなかったでしょう。しかし、そのように待遇された側としましては、いつまでたっても八分の一に希釈された「愛嬌」としか感じられません。その意味では「侮蔑」を、つまりは、「軽く見下げられ、ないがしろにされた感じ」を、どうしても受けてしまわざるをえないのでしょう。


「そこ」の思いが、じゅうぶん、「ここ」に届いているにもかかわらず、それが謙虚に受け止められず、時にはうらやんだり、ねたんだり、そねんだり、ひがんだり、ひどい場合には曲解したり、誤解したり、反撃したりするなどしながら、わたしたち日常の悲喜劇は、延々と繰り広げられています。

このようないわゆる「視座の拘束性(パースペクティヴ)」こそ、人間の「未完」を証(あかし)するもののなかでも、比較的深刻な側面なのではないか、とわたしは思っています。


「これほど尽くしてあげたのに、誰一人私の気持ちをわかってくれない・・・」、と悔し涙をながす人は、慈善家であるというよりは、むしろ善良で立派な人です。その努力尽力は、賞賛にも価します。

しかしながら、仮にも自らのエゴ(利己的自我)をそのときの「悔し涙」に隠していたとするならば、言葉は適切ではありませんが、結局は功利的で愚かな人であるにすぎなかった、と言うこともできてしまいます。


これまでの自らのエゴ(利己的自我)と、そしてその結果のすべてを棚上げにする。。。

人間界ではとうてい許さるべからぬそのような仕草が許されるとするならば、それは、その人の眼前において「神」が瞬いたからの奇跡ではなく、そのエゴにより深手を負った多くの人たちの傷を、その人の知らないところで、「神」が満天の慈悲をもって癒され続けているからこその奇跡ではないでしょうか。。。

激しく浮沈を繰り返してきた自分のわがままな「生」が、奇跡的にも「今」なお「ある」、という一日一日の体験を通してわたしは、徐々にではありますが、そう感じるようになってきています。

この思いが崩れるとき、わたしは再々度、「生」の危機に直面するであろう、と確信しています。

(2008年07月05日 記)

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)))094節(((
Reife des Mannes: das heisst den Ernst wiedergefunden haben, den man als Kind hatte, beim Spiel.
男の成熟、――それは子供の頃に遊戯の際に示したあの真剣さを再び見いだしたことを言う。
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中高年向けのメンズ雑誌が、最近、とても増えたような気がします。

わたしは、どなたかの後方から「表紙」を眺める程度で、陣取ってページを繰る、ということはまずいたしません。

わたしの年端による遠慮もありますが、草の根からでた芽のような雑誌、とはどうしても感じられないからでもあります。どうしても、「わたしにゃあ、関係ないライフスタイルだワ」、という思いが先立ちます。雑誌からそのまま飛び出してきたような中高年様を、最近はよく見かけはしますが。。。

ということで「男の成熟」。

ニーチェの箴言の主題にかかわる語群には、日本語「辞書」というものが、あまり役立ちません。これが難儀のひとつ。箴言散策のところどころで、ドイツ語原文と照合したりしていますのは、そういった事情もあります。

『広辞苑』の一部の記述では、「体や心が十分に生育すること」、とありますが、これでは「(男の)成熟」の解釈になりません。

それとの大きな誤差を埋めるべくニーチェは、「子供の頃に遊戯の際に示したあの真剣さ」に、読み手の関心を引きつけようとします。


ところで、この箇所との関連ですこし気になるニーチェの「回想」があります。それは、『道徳の系譜』「序言」三節に、一瞬ですが、登場します。
すでに十三歳という少年の時に、悪の起源の問題が私に附きまとった。「胸中に半ば児戯を、半ば神を」(ゲーテの言葉)抱いている年頃に、私はこの問題のために私の最初の文学的児戯を、私の最初の哲学的習作を捧げた――そしてその問題に対する私の当時の「解決」はと言えば、つまり私は、当然のことであるが、神に栄誉を与えて、神を悪の父に仕立てたのである。
十三歳といいますと、今なら中学一年生です。

ニーチェは、1844年、牧師の家に誕生しましたが、この『道徳の系譜』を仕上げたのは1887年です。85年から86年にかけては、その前身となります『善悪の彼岸』が書き上げられています。執筆がそれより数年ほど先行していました大著、『ツアラトゥストラはかく語りき』も、ほぼこの頃に完成をみています。

そうしますと、十三歳以来ほぼ三十年ものあいだニーチェは、ヨーロパ社会の激変期に、認識批判をも含む倫理的な諸問題について、病にも苦しみながら考え続けてきた、ということになります。

1888年の9月より、ニーチェは、北イタリアのトリノに移住しています。その年の十二月頃から錯乱が起こり、以後さまざまな精神の「変調」を露わにしながら、1900年8月25日、ついには帰らぬ人となった、と言います(この段、藤田健治氏の著書参照)。


さて、「神を悪の父」に仕立てた少年ニーチェの心性は、その後三十年ほどの思索のなかでも変わることなく、『道徳の系譜』「第二論文」などにおいても、「自律的・超越論的な」「独我的個体」にまで成長させています。

「男の成熟」・・・その実例としてニーチェは、ナポレーオン(ナポレオン)、アルキビァデース、ホーエンシュタウエン家のフリードリヒ二世、レオナルド・ダ・ヴィンチなどをあげています。

十三歳の少年の逆説的な「解決」は、「史学的および文献学的な修練」を経て、啓示的な倫理哲学となり、今も多くの子孫を授かり続けています。


メンズ雑誌は、仮象には豊かであっても、思索には貧困なのではないでしょうか。一度今度、真剣に立ち読みし、検証してみたいと思います(笑)。

(2008年07月05日 記)

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